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なぜか西ドイツ国内線に飛んでいたソ連旅客機(1973年)

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すでにこの世には存在しないので、おそらく日本ではまったく知られていない、ある航空会社の時刻表を取り上げてみたいと思います。
その名はGENERAL AIR-西ドイツの会社なので、ゲネラルエアと呼ぶのが適当でしょう。

これは同社の1973年(S48)の時刻表。路線図を見ると、西ドイツの主要都市間を結ぶ国内線の会社だったことが分かります。
路線図にLHという記号が見えますが、同社の一部の便は西ドイツのフラッグキャリアであるルフトハンザの便として運航されていました。

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そんなマイナーな航空会社を紹介したのには理由があります。
ちょっと航空に詳しい人であれば、時刻表に掲載されている使用機種の紹介を見てホホゥと思うでしょう。
左側はデ・ハビランド・カナダDHC-6ツインオター、そして右側は・・・「ソ連製の」Yak-40。

ちょっと考えてみてください。
1970年代といえば冷戦の時代。西側にはボーイングやらダグラスやら(エアバスは開発中でまだ現在のように世界的な企業ではありませんでした)資本主義の象徴ともいえる航空機が多数あったはずなのに、「西ドイツ」で「ソ連製」の機体が使われていたとは!

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これが時刻表の中身。
便名のGQというのが同社のコードで、LHはルフトハンザのコードですが、LHがついている便でもYak-40が使われるれるものは実際にはゲネラルエアによる運航でした。

しかしなぜこんなことが起きたのでしょうか?
1976(S51)年に倒産してしまった会社で資料が少なく、その真相は定かではありませんが、当時は乗客30人クラスの小型ジェット機がほとんど存在しなかったこと、また、ソ連辺境のあまり整備されていない飛行場でも使用できる、丈夫で離着陸性能に優れた機体がローカル線の運航にマッチしていたということかもしれません。

ソ連も自国の航空技術を世界に発信し、陣営の東西問わず輸出しようとしていました。1973年のパリ航空ショーで墜落したツポレフTu-144などはその象徴でしょう。
実際、1970年代に日本で開催された航空宇宙ショーにも、ソ連の機体は毎回のように訪れています。
(しかも、当時の航空宇宙ショーは入間や小牧など自衛隊基地で開催されていたので、自衛隊基地にソ連機が発着するという、これまた奇妙な光景が繰り広げられた)

西ドイツに関しては、1970年代初頭に東方外交によって東西関係が融和に向かい、共産圏に対する拒絶反応がいくらか薄らいだという背景もあったのではないかと思われます。

ただ、いずれにしても、西側諸国にとってソ連機は使いやすいものではなく、同社の例が知られる限りほぼ唯一の例でした。

同じ歴史と文化を有する民族がイデオロギー対立で東西に分かれ、それぞれが相手を意識しながら自分の陣営の繁栄を模索することで強烈な個性が生まれたのが東西ドイツという国であり時代でした。それ故に、こんな「矛盾」があちこちに見え隠れするところに、戦後ドイツ史の面白さがあるのです。

激しく同意!という方には「ニセドイツ」1~3(伸井太一さん著・社会評論社刊)をおすすめします。

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昔の空の旅-おマヌケ印刷物(その2)

この2月3月は、某誌の依頼で「ファーストクラスの歴史」やら「某空港の歴史」に関する執筆が相次いで、ついつい更新に時間を割けませんでした。

そんな執筆の中で見つけた驚愕の時刻表がコレ。

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モノ自体はかつて広島を拠点に西日本に翼を広げた東亜航空の時刻表。
東亜航空はのちに日本国内航空と合併して東亜国内航空となり、東亜国内航空は日本エアシステムを経てJALと合併という変遷を辿っています。

それはそうと、下の欄外に「空の豆知識 客室内でのご注意」というコラムがあり、その一番最後の文言に注目。

「運航上の危険を思い起させるような話題は避けましょう」

航空会社みずから言っているあたりがビビリますね。
でも、まだ航空旅行が一般的ではなかった時代には、つい不安を口に出す人がいたのでしょう。
この時刻表は1965(S40)年10月の発行なのですが、実際、その翌年には航空大事故が連続して起きています。

今や乗り込んだらすぐ爆睡し、起きたらもう着陸後だったなんていう人もいるくらいですが、航空旅行はこの半世紀の間に随分と安全・安心になったものです。

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tag : 昭和史 日本航空の歴史

ナチス・ドイツに飛んでいた“中立国”スイスのエアライン(1944年)

スイスと聞いてまず思い浮かべるのは、「アルプスに抱かれた平和で牧歌的な国」というイメージでしょう。
たしかに、19世紀から続く永世中立国という特異なスタンスによって、スイスは世界各国で起きる国家間の争いからは縁遠い位置にあるというのは事実と言えます。

一方で、かつては原爆の保有を考えたことがある位、アグレッシブな面をスイスは持っています。
永世中立とは、丸腰で平和を主張するということではなく、他のどの国とも連合しない一方で、自分の身は自分で守る-つまり、自国の主権が他国によって侵されるようなことがあれば、時に武力を行使してでも自らの手で自国を守り抜くという決意のもとに成り立つ概念だからなのです。

しかし、国際関係はそこまで甘いものではありません。
時として永世中立が妥協を強いられる局面があったのも事実でした。



今日紹介するのは、第二次世界大戦末期・1944(S19)年1月にスイス航空が発行した時刻表です。ちなみに、スイス航空は2002(H14)年に倒産してしまっており、今日のスイスのフラッグキャリアであるスイスインターナショナルエアラインズは、スイス航空のグループ会社がスイス航空を継承したものです。

この時刻表は、表に時刻・裏に旅客むけの案内事項が記載された小さな一枚もの。
戦前のスイス航空は、もちろんヨーロッパ主要都市に路線を伸ばしていましたが、当時はチューリヒからドイツのシュトゥットガルトだけに就航していました。もっとも、戦時中に民間航空路線が残っていたということ自体がまず驚きといえるでしょう。
機種はダグラスDC-2。大戦中のナチス・ドイツにアメリカ製旅客機が飛んでいたこと自体、ちょっと違和感があります。

この路線、1942(S17)年の時点ではシュトゥットガルト経由でベルリンまで運航されていましたが、連合軍がドイツ本土爆撃を行うようになると短縮されてしまったようです(それでも、この時刻表にはベルリン方面へのルフトハンザ便の連絡が記載されています)。

ところで、永世中立のスイスは、第二次大戦中にどのような位置づけにあったのでしょうか?
その答えの一端がこの時刻表から見えてきます。

ナチス・ドイツはスイスへの侵攻計画を持っていたといいますが(結局、発動はされず)、実際にはドイツとスイスの間にも貿易や物流・金融など密な関係があったことが知られています。周囲をナチス・ドイツをはじめとした枢軸国に囲まれてしまった以上、好むと好まざるとにかかわらず、上手く付き合っていかざるを得ませんでした。それが、ドイツへの路線維持となって表れている訳です。

時刻表の下の方に目を移すと、シュトゥットガルトからイベリア半島へ伸びる路線の時刻が見えます。
これはドイツのルフトハンザが運航していたものですが、シュトゥットガルトでこの路線に乗り継ぐと、同じく中立のスペインやポルトガルに達することが出来ました。
これらは大西洋に面していましたから、潜水艦の危険を避けることができれば、空と海から連合国側の人間もアクセス可能であり、枢軸側と連合国側両者にとって数少ない接点となり得る場所。もちろん、中立国スイスにとっても連合国側との貴重な窓です。

このように、対枢軸・対連合国という相反する方向へのアクセスが大戦真っ只中の一枚の時刻表に納まっているというのは、まさにスイスという国ならではのこと。しかし、スイス航空にイベリア半島方面への路線がなく、ドイツへの路線しか運航されていないというあたりは、枢軸寄りだというスイスへの批判からも合点がいく事実です。

1944年は激動の年でした。
ノルマンディー上陸作戦とそれに続くフランスの解放。これにより、枢軸国に囲まれた状態から地理的にも連合国と枢軸側との狭間へと周辺環境が変わったスイスは、大戦末期の和平工作の舞台ともなります。

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“まやかし戦争”とルフトハンザ(1940年)



1939(S14)年9月に勃発した第二次世界大戦は、ナチス・ドイツの電撃的なポーランド侵攻をきっかけに英仏とドイツが交戦状態に突入したものの、その初期にはあまり目立った戦闘がなかったことが知られています。
この時期のことは“まやかし戦争”とか“奇妙な戦争”と形容されるのですが、今日紹介するのはその当時に発行された、戦争当事国であるドイツのルフトハンザ航空の時刻表です。

SOMMERFLUGPLAN =「夏期航空時刻表」ということで、1940(S15)年5月1日から有効のこの時刻表の表紙は、当時の戦況を反映しているのか、とてものどかなものです。

夏雲を背景に緑の丘の上を飛ぶのは、フォッケ・ウルフFw200コンドル旅客機。第二次大戦前夜のドイツが長距離旅客機として開発した機体で、大西洋無着陸横断(1938年になんとナチス・ドイツとアメリカを直行)や、はるか日本への親善飛行成功など、世界を又にかけた活躍が期待された機材でした。
当時のルフトハンザ機特有の塗装として、尾翼にナチスの鈎十字が描かれていることにも注目してください。

画像左側には当時のルフトハンザの営業所や各都市の代理店案内が記載されています。ここに、モスクワやミンスクといったソ連の都市も名を連ねているのが、この時代ならではのことと言えるでしょう。

「独ソ不可侵条約」-大戦勃発直前の8月に、どう考えても手を結ぶと思えなかった両国によって締結されたこの条約によって、ドイツのルフトハンザは大戦中にも関わらずベルリン~モスクワ線を運航していたのでした。

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時刻表の内部は、戦前のルフトハンザの時刻表の流儀に従って、路線がビジュアルに分かる記載方となっています。太線がルフトハンザ便で、細線が他社の運航による便なのですが、その路線網からは、当時のヨーロッパの枠組みが浮かび上がってきます。

すでにドイツと戦争状態にあった英仏への路線は姿を消していましたが、この時刻表が発行された月に侵攻が開始されるオランダやベルギーへは郵便貨物専用便のみとはいえ、ルフトハンザ便がまだ飛んでいました。

前月にドイツの侵攻を受けていたデンマークとノルウェーについては、ノルウェーでまだ交戦中だったものの、早くもベルリンからの路線が伸びており、ドイツの勢力拡大が窺えます。

中立国であるスウェーデンも、ドイツとの間の路線が運航されているほか、ストックホルム~リガ~モスクワ線など周辺国との路線を維持していました。
一方、同じく中立国のスイスはこの路線図上にまったく見られません。中立国とはいえ、非常体制がとられた大戦初期の緊張感がこの路線図に表れているのでしょうか?
しかし、スイス航空はほぼ大戦中を通じてナチス・ドイツへの路線を維持し続けましたから、謎は深まります。

イタリアやバルカン半島といった枢軸側各国への路線が運航されているのは自然の流れ。
話は横道に逸れますが、ローマを中心としてイタリアが稠密な路線網を維持していることにも注目です。ちなみに、この路線図から直接は読み取れませんが、当時すでにイタリアによって併合されていたアルバニアのティラナを中心に、SCUTARI(シュコドラ)などアルバニア域内へ伸びる路線についても、イタリアの航空会社が運航していました。

フィンランドやバルト海沿岸も従来からのルフトハンザの路線ですが、当時これら地域はソ連の軍事的脅威にさらされている真っ最中でした。
その渦中を淡々とルフトハンザが飛んでいるのも、実は独ソ不可侵条約でこの地域の扱いが秘密裏に合意されていたということが背景にあると考えられます。

しかし、この地域がいかに危うい場所であったかを物語るエピソードが、この時刻表発行の翌月に発生します。
タリン(この路線図ではドイツ式にREVALと表記)発ヘルシンキ行きのフィンランド航空機をソ連軍機が撃墜。ソ連はバルト諸国の併合が他国の外交文書から明るみになることを恐れ、アメリカ公使館の文書を搭載した定期便を狙ったのでした。

画像左端にはさりげなく"NACH NEW YORK"(ニューヨークへ)との文字。
ポルトガルは中立だったので、同じくまだ参戦していなかったアメリカとの間に飛行艇による定期便が運航されており、民間人も形の上では安全に大西洋を往来することが可能でした。

この後、ナチス・ドイツは西欧へ侵攻し、同年夏のバトル・オブ・ブリテンでヨーロッパの空はさらに危険なものとなります。
翌年に独ソの不可侵が破られると中欧から東欧の全域が戦場となり、ルフトハンザの活躍の場はさらに縮小。ドイツ降伏の直前まで少ないながらもなんとか路線は維持されたものの、敗戦とともにその活動の幕を閉じました。

これにて本年の更新は最後になりますが、ご愛読ありがとうございました。
来る年もよろしくお願い申し上げます。


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アンダマン海に消えた大韓航空機(1987年)



1987(S62)年11月29日、経由地のバンコクを目指してビルマ(ミャンマー)沖のアンダマン海上空を飛行中の大韓航空858便は、北朝鮮工作員の仕掛けた爆発物により空中爆発。
これは、同年11月10日から12月末日まで有効-すなわち事件当時の大韓航空の時刻表です。

ご覧のとおり、翌年に控えたソウルオリンピックの馬術競技のイメージイラストが表紙を飾っています。

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この事件で犠牲となった858便は、時刻表の右上に見えます。
バグダッドを23時30分に離陸し、アブダビ経由でソウル到着は翌日の20時40分というスケジュールでした。
バンコクは「T」のマークが記載されていますが、テクニカルランディング、すなわち給油や乗員交替のための着陸で、乗客の乗降は不可という扱いです。

この事件のニュースを耳にした時、大韓航空ほどのメジャーなエアラインがボーイング707という古い機体をまだ使っていたことに驚いた記憶のある方もいらっしゃるのではないでしょうか?
(とはいえ、当時のJALも707のライバルだったDC-8を同年末まで使用)

しかし、いずれにしても同社の国際線で707を使っていたのは当時この路線だけだったことが分かります。
本来であれば他の中東路線のようにDC-10で運航されてもおかしくはなかったはずですが、機材繰りの関係か何かでこの時期はそういうスケジュールになったのでしょう。

この事件では、母国へ帰る油田関連の労働者多数を含む乗客104人と乗員11人が犠牲となりましたが、大韓航空は当時、イラクやUAE以外にもリビアやサウジアラビア、バーレーンへも寄港していましたから、その頃に韓国人の中近東への出稼ぎがいかに多かったかということが窺えます。

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この機体(登録記号HL7406)は、大韓航空が太平洋線の開設をにらんで1971(S46)年に導入した、同社の707としては最初にして最後の自社発注機ですが、そういう背景もあって往年の搭乗記念絵葉書にもその雄姿があしらわれています。

最後に、国際政治の犠牲となった悲運のフライトの鎮魂碑として、その絵葉書を掲げておきます。

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真珠湾攻撃とハワイアン航空(1941年)



「これは演習ではない」-今から70年前の1941(S16)年12月7日午前8時前(現地時刻)、ハワイ・ホノルルのアメリカ軍が発した警報です。
ちょうどその頃、アメリカ艦隊の本拠地である真珠湾は日本軍による急襲を受けていました。

太平洋戦争の開戦を告げる「真珠湾攻撃」。
現地は日曜日の朝を迎えたばかりでしたが、日本海軍機から投下された爆弾や魚雷の炸裂音が、平和な街を一転して地獄に変えました。

日本軍の攻撃が始まった頃、ホノルル空港(当時のホノルル空港とは、真珠湾の西に位置するジョン・ロジャース飛行場のこと。現在のカラエロア空港で、海軍基地でもある)では、一機のダグラスDC-3旅客機がまさにこれから出発しようとしていました。

今日紹介する時刻表は、1941年10月から有効、すなわち真珠湾攻撃当時のハワイアン航空の時刻表です。そこには、この運命の定期便が載っていました。

ハワイアン航空は、島々で構成されるハワイ諸島の足として、1929(S4)年に運航を開始しています。創業当時は水陸両用機による運航で、社名もその性格をそのままあらわす"Inter-Island Airways"と称していました。奇しくも1941年は、8月にDC-3陸上機を3機買い入れて機材の近代化を図ったほか、将来の太平洋空路への進出を念頭に、10月に社名を「ハワイアン航空」へと変更するなど、同社にとっては転機ともいえる年でした。

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時刻表からは、朝のホノルル空港から各島々へ続々と定期便が飛び立っていく様子がうかがえます。午前8時発のマウイ経由ヒロ行きが、まさに真珠湾攻撃の時に出発しようとしていた便でしょう。

攻撃を受けたのは、同社の社内番号9番・登録記号NC33606という機体。飛行場を攻撃しようと上空を通過した日本軍機に射撃され、コックピットが炎上したものの、2回目の射撃で流れ弾が消火器に当たり、幸いなことに勝手に火が消えたという逸話もあるようです。

この便には2名のパイロットと24人の乗客が乗っていたそうですが、辛くも全員無事に脱出しています。
ちなみに、当時はまだ客室乗務員は乗っておらず、同社初のスチュワーデスが採用されたのは、なんと大戦中の1943(S18)年のこと。この辺は、アメリカ流の楽天思考なのかもしれません。

なお、日本軍の攻撃により、同社の機体は一部を除いて軒並み被害を受けましたが、銃撃で開いた穴をふさぐなど急ピッチで修理を進め、約2週間で軍用という制限つきながらも運航が再開されています。

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ところで、真珠湾攻撃とハワイアン航空の関わりには後日談があります。

上の画像は、戦後1950年代に同社が発行した絵葉書。上述の9番の僚機である11番の機体が写っています。

注目していただきたいのは窓の大きさ。前後2つ、複数の窓をぶち抜いて横長に拡大された窓が見えます。これは"Viewmaster"(ビューマスター)と同社が呼んだ特別改造機で、1955(S30)年に就航しています。
同時に、機体の塗装も当時導入が進んでいた別の新鋭機に合わせた新しいものへと変更となりました。

この大型窓から望むハワイのダイナミックな眺望は好評を博しましたが、一方でDC-3は古い機体になりつつあったのも事実。ということで、せっかくの工夫もあまり長くは続かないまま、新鋭機の充実に伴って1950年代末期に同社のDC-3は売却されていきました。

その中の一機、まさに日本軍機の攻撃を受けた番号9番の機体が向かった先はなんと・・・日本だったのです。

当時、北海道内でローカル航空路線を運航していた北日本航空という会社がありましたが(※)、そこに落ち着いたのでした。

太平洋戦争という歴史の荒波、日米という過去の因縁を越えて活躍した希有な航空機。この生涯については、「日本におけるダグラスDC-3研究」というページに詳しいので、ご興味ある方はご覧いただくと良いかと思います。


(※)北日本航空はその後他社と合併して日本国内航空となり、東亜国内航空→日本エアシステムへと変遷しています。すなわち、今日のJALを構成する源流の一社とも言えます。


【おすすめの一冊】
"HAWAIIAN AIRLINES A PICTORIAL HISTORY OF THE PIONEER CARRIER IN THE PACIFIC"
 (STAN COHEN, PICTORIAL HISTORIES PUBLISHING CO. 1986)
 タイトルどおり、ハワイアン航空の創業から発展を、さまざま写真と資料で解説しています。

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tag : 昭和史 日本航空の歴史

サスペンスの舞台となったインペリアル航空(1935年)

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イギリスのミステリー作家であるアガサ・クリスティーは、『オリエント急行の殺人』など旅を背景とした作品で知られていますが、その中に飛行機が舞台の作品があることをご存じの方も多いでしょう。

『雲をつかむ死』(原題"Death in the Clouds")。1935(S10)年に発表されたこの作品は、パリからロンドンに向かう“ユニヴァーサル航空”の“プロメテウス号”という飛行機の中で起きた変死事件で幕を開けます。

今日紹介するのは、おそらく作者が下敷きにしたであろう、まさにその当時のヨーロッパ空路を翔んでいた航空会社の時刻表です。

そのエアラインの名はインペリアル航空。

同社は大英帝国のフラッグ・キャリアとして、イギリス本国から南アフリカやオーストラリアといった英連邦諸国への長距離国際線の運航で知られていましたが、この冊子には欧州内路線のみが掲載されています。

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『雲をつかむ死』では、昼にパリのル・ブルージェ飛行場を離陸して、ロンドンのクロイドン飛行場へ向かう便の機内で事件が起きるのですが、時刻表を開くとありました!

12時30分パリ発ロンドン行き-"Silver Wing Service"という特別な名前が付けられたこのフライトこそが、オリエント急行と同様に、惨劇の不可解さを際立てるにふさわしい場というインスピレーションをアガサが感じた、当時の紳士淑女の優雅な旅のスタイルを象徴する航空便だったに違いありません。
(本文中では、『クロイドンへの昼間便』 『12時の便』と表現されています。)

でも、同じ位の時間に発着する他の会社の便は無かったのか? なぜ、インペリアル航空のその便だと分かるのか? と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。たしかに、同じ路線をエールフランスの便も飛んでいました。しかし、もうひとつ、「機種」という手がかりがあるのです。

小説では“プロメテウス号”となっていますが、じつはそんな名前の機種・機体は存在しません。
それでも、時刻表には "Heracles or Scylla class of air liner" での運航と記載されているのがお分かりかと思います。
“ヘラクレス” - プロメテウスと同じくギリシャ神話に由来する名前です。そんなところにも、小説の下敷きとなった機種の姿が見え隠れします。

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では“ヘラクレス”タイプがどんな機体だったのでしょうか? インペリアル航空が当時発行した、機種別の透視図が掲載されたパンフレットをひもといてみましょう。

上はそのパンフレットの表紙で、下が“ヘラクレス”タイプの図。
1931(S6)年に登場した同機は、正式には「ハンドレページ H.P.42」といいます。これには2種類あり、38人乗りのヨーロッパ路線むけが“ヘラクレス”で、機内の一部が異なる24人乗りが“ハンニバル”タイプという、長距離国際線用でした。

『雲をつかむ死』には、プロメテウス号の機内図(但し、事件が起きる機内後半部分のみ)が巻頭に載っています。後方から、荷物室・乗降口・座席4列・ギャレー(配膳室)・洗面所という配置は、まさに“ヘラクレス”の機内図と一致するのです。
なお、このパンフレットには"Scylla"タイプの図も掲載されているのですが、プロメテウス号の図とは一致しません。

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ところで、ハヤカワ文庫『雲をつかむ死』の巻末には、作家の紀田順一郎氏による解説が付いているのですが、そこで氏は機種の推定について以下のように書いています。

『私は航空史の専門家ではないが、諸資料に照らしてみると、1935年時点では21人乗りの“超大型”旅客機は非常にめずらしいものだったといえそうだ。(中略) さいわいこの作品は緻密な時代考証で人気のあるTVドラマにより映像化されているが、そこに登場するのは米ダグラス社のDC-3機と同じ系統に属するもので、じつはこれ、クリスティーが本書を刊行した年にアメリカン航空が大陸間に就航させた機種にほかならない。この飛行機から、はじめて21人乗りが実現したのであった。 (中略) そのようなわけで一応DC-3にきまりということになるが、困ったことにこの機種は本書刊行の年の暮、1935年の12月17日になってから米英大陸間に就航したものである(後略)』

乗客数が当時としては極めて多いことに注目し、また一方で、時期的にみてDC-3という推定に引っかかるものを感じているのにも関わらず、当時のイギリス航空事情を掘り下げるに至らなかった点は惜しいところです。

ハンドレページ H.P.42はインペリアル航空でのみ使われた後、第二次大戦前後にすべてが失われ、現存する機体はありません。どんなに考証がしっかりしたTVドラマでも、そこまでの再現は難しかったでしょう。


【おすすめの一冊】
"BRITISH AIRWAYS AN AIRLINE AND ITS AIRCRAFT VOLUME 1:1919-1939 THE IMPERIAL YEARS"
(R.E.G. Davies, Paladwr Press 2005)
 民間航空史の大家による、使用機を軸にしてインペリアル航空の歴史を解説した図説。

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東西で本家を争ったルフトハンザ(1956年)

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鶴のマークでおなじみのルフトハンザは、航空マニアでなくとも知っている超有名なエアラインでしょう。
これは見てのとおり、ルフトハンザが発行した時刻表です。

ところで、この時刻表が発行された1956(S31)年当時、ドイツは東西に分裂していて、自由主義陣営と共産主義陣営の対立の最前線でした。
では東西の航空会社がどうなっていたのかというと、これまた東西それぞれ別々の航空会社が存在していたのです。

その名前は東西どちらも「ルフトハンザ」。

ここに紹介した時刻表は、「東ドイツの」ルフトハンザのもの。
東ドイツというと、日本では秘密警察やベルリンの壁といった重くて暗い印象ばかりがつきまといますが、そんなイメージとはまったく正反対の表紙はどのように解釈すれば良いのでしょうか?

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前年に設立されたばかりということで路線網はまだ限られていますが、共産圏の航空会社だけに、そのすべてがベルリンからワルシャワ・プラハ・ブダペスト・ソフィア・ブカレストといった東欧への路線だったことが分かります。
(ウィーンやチューリヒといった都市名も見えますが、乗り継ぎ便による目的地です)

ただ、共産圏である東欧は必ずしも西側諸国と接触が無かったという訳ではありません。
東欧の航空会社はパリやロンドンに乗り入れていましたし、逆に西側諸国のエアラインも東欧諸都市に乗り入れていました。
そこで困った問題が起きます。“ルフトハンザが東西二つ存在するのは紛らわしい”という指摘です。

東よりもわずかに先に設立された西ドイツのルフトハンザは、『我こそが戦前のルフトハンザを引き継ぐ元祖・ルフトハンザである』と主張。結局、この対立は裁定に持ち込まれ、東のルフトハンザには制裁金が科されることに。

こうなると、東もさすがにルフトハンザという商標を引っ込めざるを得なくなってしまい、このために取られた苦肉の策が、1958(S33)年に設立された別のエアラインであるインターフルーク(INTERFLUG)への統合でした。
こうして1963(S38)年9月、東ドイツのルフトハンザはインターフルークにとって代わられる形で消滅し、数年に渡るすったもんだにようやく決着が付いたのでした。

もっとも、1960年頃の東のルフトハンザの時刻表ではルフトハンザ便(DH)とインターフルーク便(IF)が一緒に載っていたことからも分かるように、実態としては両社は競合関係というよりも渾然一体となった運営がすでに行われていたようです。

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最後に掲げたのは、ベルリン・シェーネフェルト空港に佇むありし日のルフトハンザ機の絵葉書(ソ連製のイリューシンIl-14型機)。
東西ドイツを取り巻く航空事情は上記の逸話に限らずいろいろネタが尽きないので、またいつか触れてみたいと思います。


【おすすめの一冊】
「ニセドイツ ≒東ドイツ製工業品」伸井太一著(社会評論社 2009)
 モノやサービスから東ドイツの社会・文化を回顧する好著。館長もインターフルーク関連の資料を提供。

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嘉手納飛行場に発着したノースウエスト機(1954年)

沖縄の玄関口といえば那覇空港ですが、アメリカ統治下の昭和20年代末の一時期、嘉手納飛行場(嘉手納基地)に民間旅客機が発着していたことがありました。
ここに紹介するノースウエスト航空の時刻表がその証拠。1954(S29)年7月のものです。



ノースウエスト航空(現在はデルタ航空と経営統合し、単独企業としては消滅)は戦後、海外から日本への定期乗り入れ一番乗りとして、1947(S22)年7月に東京線を開設。ハワイを経由するパンアメリカン航空とは異なり、シアトルからアンカレッジを経由して北米とアジアを最短距離で結ぶ北太平洋航路をテリトリーとしたのが特徴です。
また、東京から先は無制限の以遠権をフル活用して、韓国や台湾、フィリピンのほか共産化する前の中国大陸(上海)へも路線をのばしていました。



北米からアジア方面への国際線時刻表は、裏表紙に掲載されています。
表の左側、寄港地の欄を見ていくと、"OKINAWA Kadena Airport"という文字が書かれているのがお分かりになるでしょう。

なぜこんなことが起きたのかというと、飛行場の整備工事と関連がありました。

1945(S20)年、沖縄に上陸したアメリカ軍は、現在の那覇空港にあたる海軍小禄飛行場を占領。下に示す写真は、当時米兵むけに絵はがきとして販売されていた、終戦頃の同地の様子です。
アメリカ軍はここを整備して基地とする一方、民間機の発着も受け入れました。ちなみに、この那覇飛行場への初の民間機就航は、1947年9月のパンアメリカン航空とされています。



しかしそれから間もなく、欧米やアジアの航空会社の寄港地として那覇飛行場の需要が急増すると、民間向け専用施設の整備が課題となりました。
そこで米軍は民間向け施設の新設を含む抜本的な改修工事を実施することとし、1952(S27)年2月に工事に着手。以降、1954年11月に完成するまで、民間機は一時的に嘉手納飛行場へ発着することとなった次第です。

なお、那覇飛行場が工事中の間には、日本航空が初の国際線運航開始の一環として、東京~沖縄線を開設しています。1954年2月5日に開設されたこのJAL沖縄線も、当然のことながら嘉手納飛行場への発着でした。

ところで、上に紹介したノースウエスト航空の時刻表には、もうひとつ見どころがあります。それは、韓国の就航地がソウルと釜山の2都市であること。

「なんだ、その2都市に就航しているエアラインなんて、今となっては珍しくもなんともないではないか」とお思いかもしれませんが、まだ韓国への旅行が一般的ではない当時、韓国へは首都であるソウルにだけ就航というのが一般的でした。
ではなぜこの時のノースウエストは2都市なのか?

ノースウエストも元々はソウルだけに就航していました。ところが、1950(S25)年6月に朝鮮戦争が勃発すると、戦場となったソウルへの民間機の就航はとても無理。韓国は釜山を臨時の首都と定めましたが、このときノースウエストもソウルから釜山へと就航地を変えたのです。

1953(S28)年、休戦の年に韓国の首都機能はソウルに戻り、ノースウエストも再びソウルへ就航するようになりました。しかし、後始末の需要があったのでしょう、一時的にソウルと釜山両方に就航していたという訳です。
程なくして韓国の就航地は再びソウルへと一本化されました。


【おすすめの一冊】
「沖縄の空の玄関 那覇空港ターミナル25年の歩み」(那覇空港ターミナル 1980)
 ターミナルビルの運営会社の社史。那覇空港の歴史についても言及が多い。

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還暦を迎えるJAL国内線(1951年)

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普段、私たちが当たり前のように利用している国内線。
今年はアニバーサリー・イヤーなのをご存知でしょうか?

敗戦をきっかけに占領軍により、航空に関わる様々な活動が禁止された日本ですが、朝鮮戦争など周辺情勢の変化を契機に再び活動が認められるようになります。
これに伴い、いまからちょうど60年前の1951(S26)年10月25日、東京~大阪~福岡間および東京~札幌間で戦後はじめて国内線の運航が開始されました(※)。これはその時(正確には11月1日からの正規ダイヤでの運航開始時)に日本航空が発行した時刻表です。

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当時のJALは日本の民間企業(特殊法人となったのは翌々年のこと)ながら、航空機の調達や運航はアメリカのノースウエスト航空に委託されていました。
時刻表からは「マーチン・スカイライナー」と「ダグラス・スカイマスター」で運航されていたことが分かりますが、前者はマーチン2-0-2(慣例的にマーチン202と表記される場合が多い)、後者はダグラスDC-4のことです。

当時のJAL機には惑星の名前が付けられていました。中でもマーチン2-0-2「もく星」号は、国内線就航一番機という栄誉を担った機体ながら、大島の三原山に墜落するという悲劇的な最期を遂げたことで知られています。

下に掲載したものは、当時ノースウエスト航空(左)とJAL(右)が発行したマーチン2-0-2のポストカードです。ノースウエストのものは、シアトルのレーニア山があたかも羽田空港から富士山を望んでいるようで、来日したマーチン2-0-2の姿が偲ばれる構図です。

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ところで、国内線が就航を開始した頃は、地上の施設も今とは比べものにならないくらい貧弱なものでした。

下は、当時JALが搭乗者に配布したB5判のチラシです。中には『飛行場の仮事務所にはトイレがありません』などという記述も。
当時の羽田空港は米軍の管理下にある“基地”でしたが、大規模なターミナルビルはまだ存在せず、現在の整備場地区にあった小さな戦前の建物などを使用して業務が行われていました。
抹線が引かれているところをみると、運航開始から間もなくして事務所が出来、こうした不便は解消したようです。

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一方、サービスについては機内食が出されるなど、むしろ現在よりも充実していた面も見受けられます。当時は運賃が非常に高額だったことから、航空機の利用は富裕層のステータスシンボルであり、それに応じて高い水準のサービスを提供する必要性があったのでしょう。

4都市を結んで始まったJALの国内線は、一時、名古屋や三沢、岩国へも寄港するようになりましたが、全日空(当時は前身の「日本ヘリコプター輸送」)との棲み分けから、1954(S29)年には再び当初の姿に戻ります。
そして、日本の経済的成長とともに便数の拡大や最新機材の導入、また、JALの民営化を契機に就航都市の拡大など、量的・質的な進化を遂げながら現在に至っています。


(※)国内線はもちろん、戦前にも存在しました。日本航空輸送株式会社などが、東京・大阪を中心に日本の主要都市に路線を広げていましたが、戦時色の高まりとともに廃止されてしまいました。


【おすすめの一冊】
「羽田空港」日本のエアポート01 (イカロス出版 2010)
 館長の拙稿『ターミナルビル変遷史』が掲載されています。

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tag : 日本航空の歴史 羽田空港の歴史 昭和史

プロフィール

ttmuseum

Author:ttmuseum
「20世紀時刻表歴史館」館長。
サラリーマン稼業のかたわら、時刻表を中心とした交通・旅行史関連資料の収集・研究・執筆活動を行う。

<著作>
「集める! 私のコレクション自慢」
(岩波アクティブ新書・共著)

「伝説のエアライン・ポスター・アート」
(イカロス出版・共著)

「時刻表世界史」(社会評論社)

その他、「月刊エアライン」「日本のエアポート」(いずれもイカロス出版)、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)などに航空史関係記事を執筆。

<資料提供>
「昭和の鉄道と旅」(AERAムック)
「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)
「ヴィンテージ飛行機の世界」(PHP)
の他、博物館の企画展や書籍・TVなど多数。

「時刻表世界史」で平成20年度・第34回交通図書賞「特別賞」を受賞。

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