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懐かしの水上バス(1960年)



「東京スカイツリー」の開業で注目を集める隅田川・浅草地域。
ここに欠かせない観光名所といえば、浅草の吾妻橋を起点に隅田川を上下する「水上バス」でしょう。ガラス張りのモダンな2階建て観光船から川風に吹かれながら堪能する眺望は格別です。

ところでこの「水上バス」、昔から現在のような形態だったのかといえば、そうではありません。
ここに紹介するリーフレットは、1960(S35)年に発行されたと思われる「水上バス」の案内。現在は吾妻橋と日の出桟橋(浜松町)をダイレクトに結んでいますが、当時は途中で蔵前橋や両国橋、永代橋に寄りながら、東銀座に発着していたことがわかります。

どうしてこんな各駅停車の路線だったのかといえば、それは現代のように観光に特化した存在ではなく、かつてはまさに水上「バス」という実用性もあったからでしょう。

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内部の解説によると、水上バスのルーツは明治18年(1885)年にまで遡ります。当初は一銭蒸気とよばれていました(表紙に『75年間完全無事故』と書かれていますので、このリーフレットの発行は1960年から61年と推察されます)。

現在では100屯クラスの観光船が走るこの路線ですが、1960年代は「10屯以上」と書かれているとおり、船の大きさは今とは比べものにならない位、小さいものでした(そこに450名収容というのはムリがなかったのでしょうか?)。

運航は夏以外のシーズンは日没頃までとなっていますが、別の資料によると、もっとも日が短い時期で夕方の16時まで。そして日の長さとともに運航時間も長くなるダイヤだったようです。ただ、この当時でも真冬は土日だけの運航となっており、さすがに実用交通機関としての役割は薄れていたのでしょう。

そして、この資料には当時の隅田川に欠かせない風物詩が他にも二つみられます。

一つ目は「勝鬨橋」。解説に書かれているとおり、この頃はまだ一日に3回、開橋していたことがわかります。やがてこの頻度は1961(S36)年に一日1回に減り、1970(S45)には“開かずの橋”となって今に至ります。

もうひとつは「佃の渡し」。路線図の勝鬨橋のすぐ上に描かれているのがお分かりになるかと思います。
隅田川には多くの橋が架けられていますが、かつてはそれぞれが渡し船だったと言っても過言ではないくらい、隅田川の渡しは隆盛を誇りました。しかし、隅田川下流で最後まで残っていた「佃の渡し」も他の例に漏れず、オリンピックで東京が大改造を遂げた1964(S39)年、佃大橋の開通により廃止となっています。

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tag : 昭和史

薩南諸島・時刻表から消えた島(1927年)



鹿児島の南、東シナ海に連なる吐噶喇(トカラ)列島。
2009(H21)年には皆既日食の観測でも有名になりましたが、この島々は鹿児島県鹿児島郡十島(としま)村に所属しており、現在は十島村営のフェリーによって鹿児島と結ばれています。

このトカラ列島への航路の歴史は1907(M40)年に始まり、戦前には大阪商船が鹿児島~奄美大島間をトカラ列島経由で結ぶ「大島十島線」を運航していました。
ここに紹介する資料は、1927(S2)年9月に発行された大阪商船の日本近海航路の運航予定表。日本近海といっても、当時の日本の版図を反映し、朝鮮半島や台湾・中国大陸との航路も多数掲載されています。

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運航予定表の真ん中下の方に、その大島十島線が見えます。

この航路には二種類あり、3日かけて人の住んでいる島をすべて巡るものと、その中でもさらに主な島だけに寄港する「四ヶ島線」があったことがわかります。
運航頻度はそれぞれ月1回。現在の十島村営のフェリーは月に12航海とのことですから、随分と便利になったもものです。

ところで、この大島十島線の寄港地には、現在では無人となってしまった島が含まれています。

それは臥蛇(がじゃ)島。

最盛期には100人程度の人口があったといいますが、戦後に過疎化が進行し、1970(S45)年7月を以って全島民が島を去りました。
現在の十島村営のフェリーは生活航路の性格が強いせいか、もともと全国版の時刻表に掲載されていませんが、今後仮に掲載されたとしても臥蛇島の名前が現れることはまず考えられず、そういう意味で「時刻表から消えた島」と言ってもあながち間違いではないでしょう。

「時刻表から消えた島」はこのほかにも、近海郵船の小笠原航路で触れた伊豆諸島の鳥島や、軍艦島の別名で知られる長崎県の端島が知られています。

平時に島が無人になる理由としては、鳥島の場合のような自然災害(火山活動など)や、炭坑の閉山で無人となった端島のように島のコミュニティが依存する産業の活動停止などが挙げられます。
しかし、臥蛇島は地理的にきわめて隔絶性が高いという“ロマン”の上に、そうした隔絶性によって醸成された地縁社会が「過疎」というきわめて人間的・社会的な理由で自然崩壊を余儀なくされたという、社会問題であるのと同時に「諸行無常」や「もののあはれ」にも通じる“物語”を有しているという点で、日本における無人島化の歴史の中でも八丈小島などと並び、注目度が比較的高い部類に入るのではないかと思います。

大阪商船のこの予定表は、無人となった離れ小島にもかつては人々の生活が存在したということを今の世に伝える貴重な生き証人・語り部と言えるのかもしれません。

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tag : 昭和史

古き良き上海に発着したアメリカの太平洋航路(1935年)



少し前のエントリー、大戦直前の上海(1941年)よりさらに6年の時を遡った資料を紹介しましょう。

「美國郵船公司」の文字もエキゾチックなこの資料は、アメリカの船会社である「アメリカン・メイル・ライン」(AML)の1935(S10)年の太平洋航路予定表。
「美國」とは中国でのアメリカの呼び名です(「美利堅合衆國」あるいは「亜美利加」に由来)。

アメリカと中国を結ぶ太平洋航路の歴史は古く、「パシフィック・メイル」(Pacific Mail Steamship)が1867年1月に、サンフランシスコ~横浜~香港間の運航を開始したことがその始まりです。

1844年にアメリカと中国(清朝)が通商条約を締結し、それに続いて幕末の日本も開国。アメリカは鉱山や鉄道建設に人手を必要としており、東洋との貿易や労働者の往来が盛んになったことがその背景にありました。
こうして太平洋航路にはその初期から中国人(移住者、労働者)の需要が少なからず存在し、運航予定表も中国語バージョンが存在したという訳です。

ちなみに、福建省に「開平楼閣」という世界遺産がありますが、これは当時北米に渡った中国人労働者が一儲けの後、19世紀末期の排華政策の影響で帰国して故郷に建てた、当時としては珍しい高層住居です。

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上述のパシフィック・メイルは、カナディアン・パシフィックと並んで太平洋航路の両巨頭(日本にも「東洋汽船」がありましたが・・・)として君臨していましたが、1920年代に大きな転機が訪れます。

海運不況の中、アメリカの実業家で「ダラー・ライン」という船会社を所有していたダラー一族が、北太平洋航路を運航するアメリカ系船会社の再編を積極的に推進。当時他社の傘下にあったパシフィック・メイルは、1925(T14)にダラー・ラインに編入され、その名が消滅することとなったのです。
そしてこの翌年、当時すでにダラー傘下となっていた船会社に、シアトルをベースとする「アメリカン・オリエント・ライン」(AOL)という会社があったのですが、これをダラーによる買収を契機に改名したのがAMLでした。

上述のように、1920年代後半からアメリカ資本の太平洋客船航路は、すべてダラーによって握られたと言っても過言ではありません。

太平洋航路に就航するアメリカの客船に、大統領の名前が付けられるようになったのはこの頃のこと。運航予定表にも「○○総統」(プレジデント・○○)という船名がズラリと並びます。
ちなみに予定表に書かれている寄港地は、シアトル、ビクトリア、上海、香港です。

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さて、当時は桟橋施設が整っていないことで大型船が接岸できない港も少なからず存在しました。
市内を流れる黄浦江がそのまま港となっている上海もそのひとつで、太平洋横断航路のような大型船に乗船するには、川岸から小蒸気船(ランチ)を使う必要があったのです。

上の画像は、1936(S11)年7月22日のAML太平洋航路客船「プレジデント・マッキンリー」に接続するランチの時刻表。本船と"CUSTUMS JETTY"(税関桟橋)との間を一時間に一回の割合で朝から深夜まで往復していたことがわかります。

しかし、これは戦前の太平洋航路黄金時代最後の輝きとも言える資料です。

この約1年後に日中戦争が勃発。中国大陸水域から外国船会社は閉め出され、総帥・ダラーの死や業績の悪化、所有船の事故などの影響でただでさえ青色吐息だったダラー・ラインはAMLもろとも1938(S13)年に運航を中止。
戦後に日米間客船航路として名を馳せることになる「アメリカン・プレジデント・ラインズ」がこの後を引き継ぎましたが、太平洋に一時代を築いたダラーとAMLの名前は戦雲の陰に消滅したのでした。

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大戦直前の上海(1941年)



『上海特急』『上海バンスキング』『上海帰りのリル』と、近現代の上海という街は、数々の人生が交錯するにふさわしく、時として“魔都”とも形容される底知れぬ奥深さを秘めたメトロポリスとして、人々に一種独特の魅力を与えてきました。

ここに紹介するのは、日中戦争から数年が経過した太平洋戦争直前の上海で発行された、日本との間の航路の入出航予定表。

発行元は「華中旅行局」と聞き慣れない名前ですが、「ツーリスト・ビューロー」という記載からも分かるように、今日のJTBの前身である「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」の華中支部を指しているようです。
場所柄、「ジャパン」という地理的に限定的な文言が適当ではないということで、そうした別称を用いていたのでしょう。

この華中支部は元々、ビューロー満洲支部の華中出張所として1940(S15)年6月に開設されたものでしたが(もっとも、ビューローはこれ以前にも華中各所に出張所や案内所を開いていました)、同年12月に早くも満洲支部から独立して本部直属の組織として発足したという経緯があります。

こうした変遷は、全体的な組織論よりもとにかく拡大志向が優先した当時のビューローと、外地の観光・宣伝活動に対する政府や経済界の思惑とがようやく決着をみたもので、『日本交通公社七十年史』の記述を借りるならば「大陸機構問題」というべきものでした。

ところで、右端に掲載された上海発着の鉄道時刻表で、「海南線」という線名が見えますが、これは上「海」と「南」京を結ぶ線という意味。しかし、元々は京滬線という名称であり、日本側の「駅名決定委員会」なる組織で検討のうえ、1938(S13)年4月1日に改称されたものです。

これ以外にも華中の鉄道路線名や駅名は多数が改称されており、そんなところにも日中戦争の影響がみてとれます。

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さて、裏面はご覧のとおり、上海~日本間の航路と上海~大連間の航路の予定表です。

前者には、日中戦争を契機に中国大陸方面への航路の一元的運航を目的として1939(S14)年に海運各社が合同で設立した東亜海運および、太平洋航路に就航していた日本郵船による船便が見られます。
ほぼ毎日のように日本との間に就航していたことからも、当時の大陸との往来の激しさがうかがえます。

なお、『支那の航運』(東亜海運 1943年刊)にも記載されていますが、日中戦争開戦前までは上海~日本間には諸外国の遠洋航路が多数就航していました。
しかしながら、日中戦争とそれに続く第二次大戦の勃発により、英仏はもとよりドイツやイタリアの船会社もこの区間では活動を停止し、ここに記載されている船便が当時の日中間の客船による連絡のすべてだったと考えられます。

ちなみに、1939年にツーリスト・ビューローが発行した案内書「上海」では、郵船の便が発着する桟橋から、日本人が多数居住する虹口地区までは自動車で10分・1ドル50セントとあります。当時の日本人にとって、大陸との往来はまさにドア to ドアの感覚だったのかもしれません。

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tag : アジアの鉄道 昭和史

第二次世界大戦勃発時の大西洋航路(1939年)



1939(S14)年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦の火蓋が開かれました。
すでにヨーロッパには戦争の暗雲が立ちこめていましたが、太平洋戦争開戦直前の日米間とは異なり、国際間の交通はそれまでと変わらず維持されてきたため、各交通機関は開戦によって大きな混乱に陥ります。

特にそれが顕著だったのが、当時の国際交通の大動脈である、大西洋を横断してヨーロッパとアメリカをつなぐ客船航路でした。
ここに紹介した資料は、アメリカン・エキスプレス社が定期的に発行していた、北米に発着する航路の運航予定表。開戦を挟む、8月から11月まで有効のものです。

ところで、アメリカン・エキスプレスというと、今日の私たちにとってはクレジットカードのブランドというイメージが強いですが、元々は運送業から出発してトラベラーズチェックの発行で有名になり、むしろ旅行業界が本来の事業テリトリーなのでした。



これが問題の開戦前後の大西洋航路(なお、北米~地中海方面の航路は別ページなのでここには掲載されていません)。
開戦によってドイツ潜水艦が跳梁する大西洋は商船にとって危険地帯となり、また、軍事輸送用に客船がたちまち徴用された関係で、多くの航路が運航中止となりました。
この資料が発行されたのは戦前のことですから、もちろん9月以降のスケジュールは「戦争がなければこういう予定だった」という情報に過ぎません。言い換えれば、「幻のスケジュール」ともいえます。

毎日数便が北米とヨーロッパ双方から出航していたという運航頻度には驚かされますが、当時の大西洋横断は大体、5日から一週間程度かかったことから推定すると、開戦時には十数隻くらいの客船が大西洋を航行していたことになります。
(もっとも、以下に触れたとおり、実際には予定通りの運航を行わなかったものもありました)

主なものをピックアップしてみましょう。

"クイーン・メリー"(英) → 8月30日サウサンプトン発の便が洋上で開戦を迎えたが、NYに無事到着。
"ノルマンディ"(仏) → 8月30日NY出港予定だったが、船主の指示でキャンセル。そのままNYで開戦を迎える。
"ブレーメン"(独) → 8月30日NY出港予定を繰り上げて出発しようとしたが阻止され、予定通り出港。
             ただし乗客は乗せず、ドイツと不可侵条約を結んでいたソ連のムルマンスクに逃げ込む。


一方、9月1日にグラスゴーを出航したイギリス客船"アテニア"(Athenia)のように、Uボートに撃沈されてしまうという悲劇的な結末を迎えた船もあります。



さて、この予定表には船だけではなく、当時開通したばかりの大西洋飛行艇空路の時刻も掲載されています。

路線は2本あり、ひとつはカナダ(※)とアイルランドを経由してサウサンプトンに至る北大西洋空路、もうひとつはアゾレス諸島を経由してマルセイユに至る中部大西洋空路でした。

(※)Botwoodの所在が"New Foundland"と記載されていることに注目。ニューファンドランドは当時まだイギリス植民地だったのです。カナダに編入されるのは戦後1949(S24)年のこと。

パンアメリカン航空によって運航されたこれらの空路も、前者は開戦後一ヶ月・就航開始からわずか3ヶ月で一般むけの路線としては運航中止、後者は中立国ポルトガルのリスボン止まりとなって辛うじてしばらくは維持されることとなります。

こうして大戦に突入した大西洋の交通ですが、まだまだ波乱は続きます。
たとえば、フランスの客船"ノルマンディ"は、1940(S15)年6月にフランス本土がドイツの占領下に入ると「敵性財産」となり、アメリカ当局に接収されてしまうという運命を辿りました。
ただ、これらについてはもはや「時刻表」で語れない部分ということで、この辺で筆を置くことにしましょう。


【おすすめの一冊】
 野間 恒「豪華客船の文化史」(NTT出版 1993)
 世界各国の客船通史として読みやすく纏められている好著。

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明石フェリー・鳴門フェリー(1954年)

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今日では、離島も含め日本各地ほとんどどこへでもクルマで出かけることができるのが当たり前になっています。
そんな「クルマ社会」のあけぼのに関わる時刻表を紹介しましょう。

1954(S29)年4月、本州(明石)と淡路島、淡路島と四国(鳴門)の間に2つの公営カーフェリーが就航。これは、当時航路を経営していた兵庫県と徳島県が発行した案内リーフレットです。
この航路は1952(S27)年に公布された道路整備特別措置法(旧)で「利便性が著しい道路は、地方自治体が国から融資を受けて整備を実施し、完成後は整備に要した費用を償還する目的で有料道路として管理する」というスキームが可能となったことによって開設されたものでした。
この区間は神戸と徳島を結ぶ国道28号線の一部なのですが、いわゆる「海上国道」部分をなぞるフェリーの嚆矢といえます。道路法によれば、こうした「渡船」も道路の一種なのです。

当時のフェリーは艀(はしけ)にやぐらが立ったような簡素で無骨な造りで、今日のように格好良いものではありませんが、本州・四国と連絡された喜びから地元・淡路島はたいへんなお祭り騒ぎだったようです。
もっとも、フェリーは島の生活の利便向上だけではなく、四国の農産物などの輸送や観光バスによる団体輸送に威力を発揮し、西日本の移動地図を塗り替えるようなインパクトを与えました。

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リーフレットはお役所が発行した資料だけに内容そのものは非常に事務的ですが、開設当初は一日に6往復が運航され、両方の航路の連絡も意識されていたことが読み取れます。
既存の船会社への配慮から、自動車と一緒でなければ乗船できず、まさに自動車のためにある航路だったようです。なお、航路は県が経営していましたが、実際の運航業務は地元の航送組合の担当でした。

その後、1956(S31)年に道路整備特別措置法の新法が制定され、有料道路の建設・管理を行う日本道路公団が発足すると、この航路は同公団に引き継がれました。
下に掲載した画像は、道路公団が管理していた時代、1970(S45)年頃の時刻表です。

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本四架橋計画の前史ともいえる明石・鳴門フェリーは、宇野~高松間と並んで四国連絡の大動脈として活躍しましたが、民間によるフェリーの乱立や航空便の頻発など激しい環境変化にさらされ、道路公団の管理する航路としては鳴門が1978(S53)年、明石が1986(S61)年に幕を閉じています。
その後、1998(H10)年には明石海峡大橋が開通。淡路島を経由しての本四連絡は悲願が実り、橋の時代にバトンタッチが完了したのでした。

その後も民営フェリーの運航は続きましたが、昨今の不況や高速道路料金の見直しなどの影響により、明石~淡路間の通称「たこフェリー」が2010(H22)年11月に運休に至ったのは記憶に新しいニュースです。

【おすすめの一冊】
「淡路島の20世紀 海と陸の交通」(洲本市立淡路文化史料館 2003)
 同館で開催された特別展の図録。淡路島を中心とした航路のほか、島内の私鉄についても言及。

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近海郵船小笠原航路(1935年)

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世界自然遺産に登録が決まった小笠原諸島。本土とはまったく異なった自然の姿を見ることができるのがその大きな魅力でしょう。しかしそれだけではなく、一昼夜かかる船旅しかそこに到る足がなく、一度渡るとほぼ一週間近くの旅になるという浮世離れした立地もその魅力を後押ししていると私は思います。
しかし、小笠原諸島は同時に悲しい歴史も背負っています。第二次大戦中は日米の激戦の舞台となり、戦後はアメリカによる統治時代を経て未だに自由な往来が出来ない硫黄島。
ここに紹介するのは、そんな硫黄島にもまだ一般住民の暮らしがあった時代の小笠原航路の運航予定表です。

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予定表をご覧いただくとわかるように、当時の小笠原航路は八丈島経由で東京と父島・母島を往復しており、その中の一部が二ヶ月に一度延航する形で硫黄島行き定期便が運航されていました(なお、これ以外にも母島~硫黄島間だけの船便があった模様)。
硫黄島は3つの島から成り立っています。予定表で「中硫黄島」と書かれているのがいわゆる硫黄島。この他に北硫黄島と南硫黄島があります。
ところで、よく見ると南硫黄島へ寄港する便は一年にたった一便、しかも東京に戻る片道しかありません。これは一体どういうことなのでしょうか? この解答は小笠原村のHPに以下のように記載されています。

『1889年(明治22年)、南硫黄島の海岸において漂着者3名が発見されて生還したため、1895年(明治28年)より硫黄島へ来航する定期船は、年に一航海だけ南硫黄島まで延航し、島の周囲を回って漂着者の在島の有無を確認するようになった。』

南硫黄島は当時から現在に至るまで無人島です。そこに往来する足としてではなく、図らずも流れ着いてしまった人を収容するための寄港だったのですね。

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無人島というと、本航路が寄港する「鳥島」も今は無人ですが、戦前には人が住んでいました。1933(S8)年まではアホウドリ(上に掲載した戦前のリーフレットでは「アホー鳥」と記載)の捕獲が禁じられていなかったので、食肉や羽毛目当ての業者が鳥島に居たからです。ちなみに、パンフレットで「正覚坊」と書かれているのは「アオウミガメ」のこと。
『未知の世界の絵巻物』という表現、なかなか秀逸です。

【おすすめのリンク】
「小笠原海運」公式サイト
 沿革のページに過去の使用船舶の写真も掲載されています。

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POLISH OCEAN LINES(1957年)

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ポーランド~アメリカ間に就航していた「バートリ」がニューヨークを追放された年、1951(S26)年にグディニャ・アメリカ・ラインズは他の船会社とともに、ポーリッシュ・オーシャン・ラインズとして新たなスタートを切ることになります。
それとともに「バートリ」も新天地へと向かったのですが、今度の活躍の場は大西洋とは正反対、なんとインド洋でした。

同社の1957年(S32)年1月の運航予定表では、「バートリ」はボンベイ(現・ムンバイ)~グディニャ間をケープタウン経由で1ヶ月かけて航海しています。元々はスエズ運河経由での運航でしたが、前年に勃発した第二次中東戦争(スエズ動乱)で運河が封鎖されてしまったことから、この頃は南アフリカ経由のまわり道をせざるを得なかったようです。

ところでなぜ、地理的にも離れ文化も異なるポーランドとインドを結ぶ客船航路があったのでしょうか? 実は筆者にもよくわかりません。ただ、憲法に社会主義を謳い、非同盟を掲げて冷戦時代でありながら東西両陣営とそれなりに付き合っていたインドの外交姿勢を考えれば、決して不可思議なこととは言えないでしょう。

「バートリ」の航海はまだ続きます。1957年には再び大西洋へとカムバック。しかしニューヨークではなく、グディニャとカナダのモントリオールを結ぶ航路への就航でした。
カナダのバランス感覚を重視する外交スタンスのおかげか、1969(S44)年に後進に道を譲って約35年の波乱に満ちたキャリアを終えるまで、今度は平穏無事に役目を務めています。

最後に余談を。ポーランドといえばバルト海に面した東欧の国というイメージがありますよね? しかし、今のような国境が確定したのは第二次大戦後のことなのです。
戦前は全体的に国土が今よりも東にずれており、バルト海との間には東プロイセン(現・ロシア連邦のカリーニングラード州)が横たわっているおかげで、グディニャ周辺がわずかに海に面しているだけでした(いわゆる「ポーランド回廊」)。グディニャの隣にあった自由都市ダンツィヒ(現・グダニスク)にドイツの影響が浸透していたことから、これに対抗する意味もあってポーランドはグディニャ港の整備に力を注いだという歴史があります。

【おすすめのリンク】
"POLISH OCEAN LINES" 公式サイト
 同社の歴史や過去に在籍した船舶についての紹介も豊富。

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GDYNIA-AMERICA LINES(1950年)

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よく視聴者投稿ビデオを紹介する番組で「このあと、信じられないことが起こる!!」なんていうナレーションがありますが、今回紹介するのはまさにそんな驚きのストーリー展開を背負った一品。

ポーランドの海運会社、グディニャ・アメリカ・ラインの1950(S25)年5月の運航予定表。巻頭には客船「バートリ」(BATORY)によるグディニャ~ニューヨーク間の大西洋航路の運航予定が掲載されています。コペンハーゲンとサウサンプトンを経由し、ひと月に一往復の割で運航されていたようです。
16世紀のポーランドの王様の名前にちなんで名づけられた「バートリ」は、姉妹船の「ピウスツキ」(こちらは20世紀に入ってからのポーランド共和国初代元首の名前)とともに第二次大戦直前に大西洋航路に就航した、同社を代表する客船でした。


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上に掲載した戦前の同社のパンフレットの表紙に掲載されている写真からも分かるように、「バートリ」は何の変哲もない普通の外航客船でした。しかし、1950年前後のニューヨークではかなり「浮いた」存在だったと推察されます。なぜならば、「共産圏からの客船」だったからです。
ポーランドは他の東欧諸国と同様に、元々から社会主義国だった訳ではなく、戦後の復興の過程で共産党政権が誕生し、ソ連主導の東側ブロックの一員となりました。当時は冷戦の最初期、アメリカでは「赤狩り」の嵐が吹き荒れていた時代です。東側諸国からの定期客船が好意的に見られたはずはありません(そんな時代に東西両陣営間に定期航路があったこと自体が信じられないですが)。

この予定表の前年、「バートリ」にとって決定的にダメージとなる事件が起きていました。なんと、東側大物スパイのアメリカからの脱出に使われたのです。以降、入港時には当局の厳重な監視が敷かれるようになったばかりか、ニューヨークの港湾労働者が「バートリ」に関わる作業を拒否。そうなれば運航を維持できないのは当たり前ですよね。
ということで、翌年の1951(S26)年に「バートリ」は伝統ある大西洋航路からの撤退を余儀なくされたのでした。

東西冷戦はこんなところにも影を落としていたのです。
このあと「バートリ」がどうなったのか? この続きは次回。

【おすすめの一冊】
"THE LAST ATLANTIC LINERS" (WILLIAM H.MILLER, Conway Maritime Press Ltd. 1985)
 戦後の大西洋航路の歴史について、就航船にまつわるストーリーがまとめられています。

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プロフィール

ttmuseum

Author:ttmuseum
「20世紀時刻表歴史館」館長。
サラリーマン稼業のかたわら、時刻表を中心とした交通・旅行史関連資料の収集・研究・執筆活動を行う。

<著作>
「集める! 私のコレクション自慢」
(岩波アクティブ新書・共著)

「伝説のエアライン・ポスター・アート」
(イカロス出版・共著)

「時刻表世界史」(社会評論社)

その他、「月刊エアライン」「日本のエアポート」(いずれもイカロス出版)、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)などに航空史関係記事を執筆。

<資料提供>
「昭和の鉄道と旅」(AERAムック)
「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)
「ヴィンテージ飛行機の世界」(PHP)
の他、博物館の企画展や書籍・TVなど多数。

「時刻表世界史」で平成20年度・第34回交通図書賞「特別賞」を受賞。

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