米軍政下の釜山地方交通局(1945年)

100年以上におよぶ朝鮮半島の鉄道史の前半は、アジア現代史と密接に関わる激動の歩みでした。
日本など外国の資本によって鉄道整備が開始された揺籃期。1910(M43)年の日韓併合以降には、大陸の鉄道との関連から、満鉄によって経営された時期もあります。その後、朝鮮総督府による管理が第二次大戦が終わるまで続くこととなりました。
ここに紹介する時刻表は、大戦の終結を受けて朝鮮半島の南半分にアメリカによる軍政が敷かれた頃のもの。裏の文字が見えそうな薄い紙に印刷された20ページの冊子ですが、業務用ということで旅客列車以外だけではなく、貨物列車等も記載されています。
米軍による軍政時代とはいうものの、鉄道の運行は現地の人々によって行われていたらしく、時刻表の本文はすべて漢字による表記で特に英語は見あたりません。ハングルはというと、裏表紙に記載されている発行所の所在地で唯一、『○○番の×』の「の」に相当する文字が使われています。

中を開くと、京城(ソウル)~釜山間の京釜線(ただし、大田以南のみの掲載)をメインに、釜山周辺の路線のみが掲載されています。
現在は韓国版新幹線・KTXが2時間台で一日に約50往復も運行されるソウル~釜山間には、旅客列車がたった2往復しか走っていません。これはほぼ終戦当時の水準と同様です。一方、貨物列車はというと5往復の運行。どちらかというと、人の移動よりも物流の大動脈として鉄道が重視されていたことが伺えます。
日本人にとって1945(S20)年の朝鮮半島というと、引揚げという言葉がまず浮かぶのではないでしょうか? おそらくはここに掲載された列車の中にも、日本への帰還をめざして命からがら北方から避難してきた人々の姿があったことでしょう。
この後、1946(S21)年に交通局は「運輸局」を経て「運輸部」に改称。1948(S23)年に大韓民国が成立すると、北緯38度以南の鉄道はようやく韓国政府による管理となり、現在は公社によって運営されています。
【おすすめの一冊】
「鉄道ピクトリアル 229号」(鉄道図書刊行会 1969年10月)
大久保邦彦氏による連載『大韓民国鉄道の現況』を掲載。『韓国鉄道概史』が参考になる。
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NEW YORK CENTRAL RAILROAD(1939年)

きょうは「エコ」?な話を。
ここに紹介する時刻表は、かつてアメリカを代表する鉄道会社のひとつだった「ニューヨーク・セントラル鉄道」の業務用のもの。発行は第二次大戦直前の1939(S14)年6月です。
同社はその名の通り、ニューヨークからシカゴやボストンなどへの列車を運行していましたが、この時刻表はその中でもマンハッタンを中心とした、いわば同社にとって総本山とも言うべき地域の運行時刻が収録されています。

ところで、なぜ一般旅客用のものではなく、関係者向けの部内資料を取り上げる必要があるのかと疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。それは、「貨物列車」の時刻が見たかったからです。
今日注目したいのは、マンハッタンの北隣に位置するスピュイテン・デュイビル(Spuyten Duyvil)から、マンハッタンの心臓部・西30丁目までを結ぶ「ウエストサイド線」。ウエストサイドというと、ハドソン川に沿った大都会の片隅-薄汚れた工場街とスラム-不良少年が愛と暴力の青春を謳歌するテリトリー・・・とまあ、ミュージカルや映画のイメージが沸いてきますが、そんなところに貨物専用線が通っていて、そこを往来する郵便列車やミルク列車が大都会の生活を支えていたわけです。

さて、時刻表本文には残念ながら30丁目までしか掲載されていませんが、この路線はさらに南へと延びていました。高架で街中を貫き、時にはビルをぶち抜いてローワー・マンハッタンまで達するこの線路は1934(S9)年に完成し、俗に「ハイライン」(High Line)と呼ばれて親しまれました。入換扱いということでこの区間の列車は時刻表に載っていなかったようです。
下の画像はニューヨークの港湾局が1956(S31)年に発行した地図から、ハイライン部分のクローズアップです。途中で分岐する引き込み線もあったことがわかります。

下は同じく1956年の地図からマンハッタンの全体図。マンハッタン北部(スペースの都合上、地図の右が北で左が南)からハドソン川沿いに南下し、30丁目の操車場を経てさらに続く線路が赤線で示されています。

戦後、鉄道による貨物輸送が斜陽化するとウエストサイド線から貨物列車は姿を消します。ハイラインは1980(S55)年を以って役目を終え、草木が生い茂る長大な空き地になってしまいました。そうなると「無用の長物は撤去してしまえ」という意見が出るのは自然の流れ。犯罪多発都市と言われた80年代から90年代のニューヨークでは、そうした廃墟が犯罪の温床になると考えられていたので、当局も撤去に前向きでした。ちなみに、30丁目以北は旅客線に転用されて今に至っています。
そんなハイラインに対する風向きが大きく変わったのは21世紀に入ってからのこと。撤去論の一方で、ハイラインの文化的価値を認め、それを街づくりの核にしようという運動が行われていましたが、その活動が実り、高架線がそのまま公園(遊歩道)として再生されることになったのです。「廃墟になれば周囲はさらに寂れる。逆に、人が集まる仕組みを作れば街には活気が戻る」-まさにその実践の成功例といえるでしょう。
ハイラインと同じような試みは日本にも存在します。横浜では、国鉄時代に開通した山下埠頭に通じる貨物線の高架を活用し、遊歩道が設けられています。ニューヨークに先立つこと7年、2002(H4)年のオープンなので、この分野では日本の方が一歩先を行っていたのですね!
【おすすめのリンク】
"The High Line" 公式サイト
遊歩道の散策には欠かせない情報を満載。ハイラインに関するグッズ販売も。(英語)
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