生き残った「あじあ」号(1959年)
かつて大連~新京~哈爾浜間を駆け抜けた、南満洲鉄道の特急「あじあ」号。
密閉式展望車を最後尾に連結した濃緑色の客車の先頭に立っていたのは、流線型も斬新な大型蒸気機関車・パシナでした。
「あじあ」は1934(S9)年に運転を開始し、戦争が激しさを増す1943(S18)に運転を取りやめていますが、それらの車両は、終戦前後にソ連が侵攻したどさくさや中国大陸の政治体制の大変革を経て、日本人の前からは姿を消すこととなります。
長らく消息不明だった牽引機のパシナが、廃車体として「発見」されたのは、中国交正常化後に日本人観光団体を受け入れるようになった1980年代の中国でのことでした。
これにより、それまでは「中国に残存」とも「ソ連に持ち去られた」とも言われていた「あじあ」号の車両は、一部が中国に存在していたことが確実となった訳ですが、「竹のカーテン」の向こう側・戦後まもない中国での現役時代を今に伝えてくれる資料は、「発見」から30年を経ても一般には目にすることがないのが実情です。
という訳で、これを最初に見たときは目を疑った貴重な資料を紹介したいと思います。
1959(S34)年に瀋陽の鉄路局が発行した地方版時刻表、表紙を飾るのは紛れもなく流線型のパシナです。

当時の中国の時刻表は、実際には中国に存在しない西欧の車両をモチーフとしたイラストが表紙を飾ったりしているものもあるのですが(そうまで見栄を張りたいのか?)、これはそうしたものとは異なり、パシナの姿が割と忠実に描かれています。
ただ、青系だったと言われる塗装は、戦後の中国の車両の標準的な塗装である、緑に白いストライプに変更されています。
当時のパシナの運用は分かりませんが、瀋陽鉄路局発行の時刻表表紙に描かれていることから推察すると、やはり戦前の満鉄時代と同じような路線で走っていたのではないでしょうか。
(画像をクリックすると拡大します)
密閉式展望車を最後尾に連結した濃緑色の客車の先頭に立っていたのは、流線型も斬新な大型蒸気機関車・パシナでした。
「あじあ」は1934(S9)年に運転を開始し、戦争が激しさを増す1943(S18)に運転を取りやめていますが、それらの車両は、終戦前後にソ連が侵攻したどさくさや中国大陸の政治体制の大変革を経て、日本人の前からは姿を消すこととなります。
長らく消息不明だった牽引機のパシナが、廃車体として「発見」されたのは、中国交正常化後に日本人観光団体を受け入れるようになった1980年代の中国でのことでした。
これにより、それまでは「中国に残存」とも「ソ連に持ち去られた」とも言われていた「あじあ」号の車両は、一部が中国に存在していたことが確実となった訳ですが、「竹のカーテン」の向こう側・戦後まもない中国での現役時代を今に伝えてくれる資料は、「発見」から30年を経ても一般には目にすることがないのが実情です。
という訳で、これを最初に見たときは目を疑った貴重な資料を紹介したいと思います。
1959(S34)年に瀋陽の鉄路局が発行した地方版時刻表、表紙を飾るのは紛れもなく流線型のパシナです。

当時の中国の時刻表は、実際には中国に存在しない西欧の車両をモチーフとしたイラストが表紙を飾ったりしているものもあるのですが(そうまで見栄を張りたいのか?)、これはそうしたものとは異なり、パシナの姿が割と忠実に描かれています。
ただ、青系だったと言われる塗装は、戦後の中国の車両の標準的な塗装である、緑に白いストライプに変更されています。
当時のパシナの運用は分かりませんが、瀋陽鉄路局発行の時刻表表紙に描かれていることから推察すると、やはり戦前の満鉄時代と同じような路線で走っていたのではないでしょうか。
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国境線を越えては戻るラトビアの狭軌鉄道(1937年)

本日のネタは、私のブログでもおなじみ・バルト三国のちょうど中央に位置するラトビアの時刻表。
ラトビアといえば、戦後長らくソビエト連邦を構成する共和国のひとつだったことはよく知られていますが、ここに紹介するのは、第二次大戦の直前・ラトビアが束の間の独立時代を謳歌していた頃に発行されたものです。
ラトビアはバルト海に面した港町。また、西欧からロシアや北欧への通過点にあるということで、この時刻表の内容は表紙のイラストからもわかるとおり、鉄道のみならず航路や航空路線まで収録された総合的なものとなっています。
先ほど、「束の間の独立時代」と書きましたが、この地域の歴史を語る上で他国による領有の変遷は欠かすことのできないトピックです。
近世になってからは、1730年にロシアによる支配が開始され、これは第一次大戦後に独立を勝ち取る1918(T7)年まで続きます。この当時、隣国のリトアニアやエストニアもロシアの支配下にありました。
こういう歴史を経てきた結果、どういうことが起きたのかということを、時刻表に掲載されている鉄道地図から拾うことができます。

これはラトビア全体の鉄道地図ですが、その右上・赤枠で囲んだ場所を拡大してみましょう。

黒い太線がエストニアとの国境線で、そこを挟んで下がラトビア、上がエストニアとなります。
左上から右下に向かって走る「13」番と書かれた路線は、よく見ると一部の区間がエストニア領内にはみ出しているのがお分かりになるでしょう。
つまり、この路線はラトビアから出発し、エストニアの領内を通過し、再びラトビアに戻るという変わったルートを通っていたのです。
この路線が出来たのは1903(M36)年、すなわちロシアによる支配の時代。その後、バルト三国の独立の際、鉄道路線を意識せずに国境線が引かれてしまったということでしょうか。

これを時刻表で見ると、上の画像のようになります。
右下にある13番の時刻表がこの路線。駅名の右に家のマークがありますが、これが国境の駅を示します。ラトビアが管理する鉄道でありながら、Valka~Ape間がエストニア領内を走っていたのです。
この区間の列車は、早朝に行って夕方に帰ってくる一往復の鈍行だけ。
なお、現在でも他国にこうした「回廊列車」は存在しますが、他国領内を走る際にはノンストップだったりするわけで、普通の各駅停車の列車が他国領内を走るというのはあまり例がないと思われます。
ちなみのこの鉄道、現在では運転区間が縮小され、エストニアにはみ出す区間は1970(S45)年に廃止されてしまっています。残ったグルベネ~アルークスネ間(Gulbenes~Alūksnes)はバルト三国で唯一の狭軌(ナローゲージ)鉄道として大切に保存され、観光客や地元の人々を乗せて元気に走っています。
【おすすめのリンク】
グルベネ~アルークスネ鉄道公式サイト
同線の歴史や車両についての紹介。
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阪急電車の京都-宝塚直通特急(1954年)

大手私鉄の中でもひときわスタイリッシュで気品あるイメージを持つ阪急電車。
創業者・小林一三の巧みなビジネス展開は、日本型私鉄経営の教科書のように語られていますが、その過程には鉄道ファンや関西人以外にはあまり知られていないトリビアもあります。
いまの大阪のターミナル・梅田駅は戦後昭和40年代に完成したもので、戦前はJRの線路の南側・現在の阪急百貨店の場所にありました(近年、百貨店建て替えのために、かつての壮麗なコンコースも撤去されてしまったのは残念なことです)。
また、今でこそ阪急と言えば京都線・神戸線・宝塚線の3線がセットと考えられていますが、実はそれぞれの路線は異なる発祥を持っており、現在のような路線網が確定するのは戦後のことです。
今日紹介するのは、そんな戦後間もない時代の阪急電車(当時の正式名称は京阪神急行電鉄)京都線の時刻表。
なお、大阪←→京都という表記が見えますが、この頃の「京都」とは、現在の終点・河原町ではなく、大宮駅に相当します。

さて、この時刻表によると、特急が朝晩のみの運転だったり、普通列車が基本的に天神橋発着で、梅田発着なのは急行のみだったりと、現在とはまったく異なる運転系統だったことが分かります。しかし、何よりも注目すべき記述が右下の脚注欄に見えます。
『京都駅発宝塚行直通特急列車 日曜祭日のみ運転 9時16分』
京都線を路線網に加えた阪急は、平行して走る国鉄(現JR)との競争を意識し、京都方面と神戸・宝塚方面の直通列車の運転を計画しました。1949(S24)年から1951(S26)年には、京都~神戸間に直通特急を運転。この列車は当時の「交通公社の時刻表」にも、所要65分として載っています。
これに続いて設定されたのが、京都~宝塚間直通特急でした。宝塚といえば歌劇団。1950(S25)年に運転を開始したこの列車は、時に「歌劇号」や「歌劇特急」とも呼ばれました。日曜祝日のみ運転だったせいか、市販の時刻表には掲載されておらず、この駅配布時刻表はその姿を偲ぶ貴重なものです。
京都~宝塚直通特急は、3線の合流駅・十三から神戸線に入り、西宮北口から今津線経由で宝塚まで走っていました。当時の京都線と神戸・宝塚線は架線の電圧などの規格が異なっており、この直通運転は車両の構造などの面でもひと工夫が必要で、戦後の阪急の車両規格にも少なからず影響を与えたようです。
京都線と宝塚を直通する列車は1968(S43)年まで運転され、幕を閉じました。
その後長らく、京都と神戸・宝塚方面を直通する旅客列車はありませんでしたが、近年は神戸・宝塚方面と嵐山を結ぶ直通列車が行楽シーズンに運行されています。しかし、運転区間からも分かるように、兵庫県方面の旅客を京都に誘導するのがその目的で、かつての歌劇特急のように、京都方面から兵庫県への流れとは逆なのが興味深いところです。
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tag : 昭和史
“トーマス・クック時刻表”の戦後市販再開第一号(1946年)

ヨーロッパの鉄道旅行には欠かせない“トーマス・クックの時刻表”。
イギリスで創業した旅行代理店、トーマス・クック社が発行するこの時刻表の創刊は、なんと1873(M6)年。日本において新橋~横浜間に鉄道が開業したのがその前年なのですが、時代が江戸から明治に変わってまだ間もない時期にあたります。
実は創刊の年だけでみれば、イギリスにはこれよりもさらに古い鉄道時刻表が存在しました。
“ブラッドショー・大陸案内”は1847年の創刊。しかし、1961(S36)年に廃刊となってしまい、トーマス・クックが一世紀以上の歴史を今に至るまで更新し続けているのです。
ところで、この100年には様々な出来事がありました。なんと言ってもその筆頭が第二次世界大戦でしょう。
1939(S14)年9月、大戦の勃発に伴ってヨーロッパ大陸は戦場となり、一般人にとって旅行という活動は縁遠いものとなりました。当然、旅行者をターゲットとする時刻表にとってこの事態は致命傷。トーマス・クック時刻表も、その時点で休刊となっています。
ちなみに、第一次世界大戦の時には、戦場となった地域の時刻は開戦前の内容のままとはいえ、時刻表自体は毎月刊行が続けられていたといいますから、このことからも第二次世界大戦のインパクトがうかがえます。
クックが復刊したのは大戦終結翌年、1946(S21)7月のこと。しかし、表紙には"STAFF USE ONLY"と記載され、事務用ということで一般には市販されていません。
正真正銘、一般むけとして再登場したのは同年11月でした。本日紹介するのはまさにその市販再開第一号です。
オレンジ色の表紙、大体B5版というのは今日のものとあまり変わりません。しかし、戦前の号はこの約半分のサイズだったので、当時はガラっと印象が変わったことでしょう。
ちなみに、今日のものは背の糊だけで製本されていますが、この頃まではゴムのような細紐でも綴じられていました。

目次に目を移しましょう。
前半がヨーロッパ各国の鉄道、後半が船舶の時刻という今と同じ構成ですが、ある国の欠落に気づきます。
それは「ドイツ」。当館でもしばしば記載しているように、大戦後のドイツは米英仏ソによって分割占領されており、鉄道も当時はまだそうした占領国による分割管理でした。
一方、ドイツに占領されていたチェコスロバキアやオーストリアについては、この時点ですでにドイツからは切り離されて国土を回復しており、鉄道も個別の管理に戻っています。
オーストリアは実際は分割占領状態でしたが、鉄道はオーストリア国営鉄道"Austrian State Railways"として一体に扱われています(翌年にオーストリア連邦鉄道"Austrian Federal Railways"に改称)。
もっとも、ドイツの項目が無いからといって、ドイツ国内がまったく掲載されていない訳ではなく、巻頭に纏められている国際連絡のページには、ドイツ国内を通るパリやロンドンから中欧・東欧への直通列車が載っています。
代表格はパリ発ウィーン行きの「オリエント・エクスプレス」。当時はシュトゥットガルトから分割して、プラハやその先のワルシャワにも至っていました(製本がもろく、内部をスキャニングできないのが残念です)。
ところで、この時刻表には旅行会社発行らしく、ビザの要否など各国の入国要件も記載されているのですが、その冒頭にはこんな一文があります。
『以下の地域への一般旅行者は軍の許可(Military Permits)が必要です。-ドイツ、オーストリア、ヴェネツィア・ジュリア州(トリエステ含む)、ビルマ、マラヤ、トリポリタニア、キレナイカ、エリトリア、ソマリア、ソマリランド、日本、韓国』
『ブルガリア、ハンガリー、ルーマニアへの入域は、Control Commissionの許可が必要です』
どこも枢軸側支配から連合軍による解放など激動の変遷を辿った場所。平和が到来したとはいえ、まだまだ自由な世界旅行は望めない時代だったのです。
そして、ソ連(ロシア)については『旅行をしたい人は個人的に領事館に申請すること』とあり、冷戦時代につながる不気味さがうかがえます。
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大戦中のパレスチナの鉄道・バス(1944年)

これは第二次大戦中にパレスチナで発行された鉄道とバスの時刻表(大戦中ということもあり民間航空はない)。
ご覧のとおり、全編ヘブライ語と英語の二カ国語表記になっているのが、イギリス委任統治領という当時のパレスチナの位置づけを物語っています。
ちなみに、発行は"PALESTINE TOURIST DEVELOPMENT COMPANY"となっていますが、一方でパレスチナ鉄道も"ISSUED BY"として名前が挙がっており、一体、どちらの発行なのかは判然としません。
表紙に掲載されているパレスチナ鉄道の広告には、『あなたの鉄道は現在戦時輸送体制にあり』『戦後の明るくよりよいサービスに備えています』といった時局を象徴する文言が躍りますが、まさにこの言葉通り、大戦中のパレスチナの鉄道は地中海東部における連合軍の輸送ルートとして重要な役割を果たしていました。
事実、時刻表の表紙裏には"THE SERVICES CLUBS IN PALESTINE UNDER THE AUSPICES OF THE JEWISH HOSPITALITY COMMITTEE WELCOME ALL MEMBERS OF H.M. AND ALLIED FORCES"と、パレスチナ通過・駐留の連合軍を歓迎する娯楽施設の宣伝が載っています。

さて、イスラエルが建国されて周辺のアラブ諸国との連絡が絶たれる前、パレスチナの鉄道は南はスエズ運河東岸のカンタラより、北はハイファから内陸の高原を越えて今日のシリアやレバノン方面へと路線が延びていました。
(画像ではカンタラからハイファまでの路線が見えますが、次ページにダマスカス方面への連絡が掲載されています)
なお、1942(S17)年には海岸線沿いにレバノン方面と連絡する路線が完成し、内陸を迂回しない輸送が始まっていたようですが、この時刻表にはそうしたルートの列車は載っていません。軍事輸送用だったからではないでしょうか。

この時刻表の中で興味深いページのひとつが、近隣諸国への長距離バスの時刻です。
上の画像からもお分かりになると思いますが、ハイファ~ダマスカス~バグダッド、エルサレム~アンマン、エルサレム~バグダッドの3路線が載っています。
これらの路線に関わる周辺諸国の動きにも興味深いものがあります。シリアはもともとフランスの委任統治領でしたが、大戦中に独立を宣言。しかし、1944(S19)年当時は、まだフランスが独立を承認していないという中途半端な状態でした(フランスがシリアを手放すのは1946年のこと)。
ヨルダンはトランスヨルダンとして独立した政体が存在していたものの、立場的にはイギリスの委任統治領でした。
イラクはパレスチナと同じくイギリスの委任統治領だったものが1932(S7)年にイラク王国として独立。しかし、反英の空気が根強く、第二次大戦の混乱に乗じて枢軸側と手を組んでイギリスに反旗を翻そうとしたところ、逆にイギリスに侵攻されて占領の憂き目に遭っていました。
中東地域は、大戦中に独ソや太平洋のような連合国vs枢軸国の長期にわたる派手な攻防戦の舞台にはなりませんでしたが、戦争遂行に欠かせない石油という資源を持っていること、また、アフリカやアジア方面へのルートを確保するうえで重要な場所だったため、民族主義との軋轢の中で英・仏がガッチリと支配を固め、その結果、上記にみられるような交通網が大戦中にもかかわらず存在し得たと考えられます。

全体で70ページあまりの冊子のほぼ9割を占めるのが、集落を結ぶローカルバスの時刻表です。
パレスチナでは、ユダヤ人の入植が進んでいましたが、必ずしも鉄道の近くとは限らないこうした入植地への足として、バスは重要な役割を果たしていました。
その中心は"EGGED"と呼ばれるバス会社。1933(S8)年1月に設立された中小のバス業者の連合体がその起源です。
よく見ると、バス停の名前に■が付いているものがありますが、脚注に記載されているとおり、"Jewish National Fund"によって開発された土地を示しています。
"Jewish National Fund"は画像に左ページに広告も出ていますが、20世紀初頭に発足し、今日も存在するパレスチナの国土整備・開発を目的とした組織です。
当時はまだイスラエル建国前ですから、ユダヤ人とパレスチナ人どちらかが国際的に明確な支配権を持っていたわけではありませんが、いままで見てきたようにこの時刻表全体を貫いているトーンは、バルフォア宣言以降のイギリスの立場、すなわち「イギリス政府はパレスチナの地にユダヤ人が国家を樹立することを支持する」というものに後押しされたもの言えるでしょう。
しかし、ユダヤ人すべてがイギリス支持だったのかと言えば、それも違うところが複雑です。
最初に触れた鉄道も、大戦後の1946(S21)年6月、右派ユダヤ人による反英爆破事件により、隣国との連絡上重要な橋が破壊されるなどの被害を受けています(「橋の夜」)。
また、3枚目の画像(長距離バスが載っているもの)の右ページに広告が見える「キング・デービッド・ホテル」(=ダビデ王という名前ですね)は「橋の夜」の1ヶ月後、同様の爆破事件によって100人近くが犠牲になりました。
そうした混迷のパレスチナ情勢がイギリスの支配に空白を生じさせ、やがて第一次中東戦争へとつながっていったのです。
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大戦突入直前のオランダ領東インド鉄道(1941年)

現在のインドネシアが、かつてオランダ領だったことはよく知られています(オランダ領東インド。日本では「蘭印」とも呼ばれた)。
本日紹介するのは、そのオランダ領東インドの鉄道時刻表。1941(S16)年11月から翌年にかけて有効のものです。
ということは、
まさに太平洋戦争の開戦直前に発行されたもの
ということになります。
現地の観光局は、ジャワ島などを訪れる観光客向けにダイジェスト版の時刻表を1910年代には早くも発行していましたが、ここに紹介した時刻表は全線全駅を掲載したフルサイズ。ポケット版ながら、300ページにも及ぶ堂々たる体裁です。
それもそのはず。オランダ本国は国土は小さいですが鉄道網がよく発達していることで知られています。その技術と精神を受け継ぎ、オランダ領東インドの鉄道は東南アジアではいち早く、1867年(慶応3年)に開業し、戦前の時点ですでに総延長が7000キロにも達していたといいます。
時刻表冒頭に挿入されている、新型の客車やダイナミックに橋や線路を撮影したグラビアからも、そうした発展の片鱗が窺えます。

時刻表は、バタビア(現:ジャカルタ)~ジョグジャカルタ間の急行列車から始まり、スラバヤ島・パレンバンとジャワ島との連絡時刻が続きます。
その次からが線区別の時刻表になるのですが、上の画像はバンドン発スラバヤ方面の時刻表。黒い枠は急行列車の印です。
脚注に記載されているように、「B」はビュッフェの連結を示します。ほかに食堂車を示す「R」などもあり、設備面も充実していたことが偲ばれます。しかし一方で等級を見ると1等から4等まであったことが分かり、1等の豪華で快適な旅と4等との間にはかなりの差があったことでしょう。
ちなみに、当時のオランダ本国は前年5月にナチス・ドイツに占領され、政府はイギリスに亡命している状態でした。国土はナチス・ドイツの侵攻で破壊され、鉄道も甚大な被害を受けています。
一方で、その亡命政府が管轄するこの東南アジアの植民地には、時刻表からも窺えるように何事もなかったかのような南国の暮らしが息づいていました。それは、あたかも栄華をきわめた本国の形見のような存在だったといえるでしょう。
そんなオランダ領東インドも、太平洋戦争の開戦翌年、1942(S17)年3月には日本軍に占領され(この侵攻は、パレンバンへの落下傘降下作戦などでよく知られていますね)、当然のことながら鉄道も日本の管理下に置かれることとなります。このときに線路の幅は縮小され、ヨーロッパの標準軌から狭軌(1067ミリ軌間)という日本仕様へと変更されています。
ところが、この変更が幸いしたのか、現在では国際協力の一環として日本の中古車両がインドネシアに譲渡され、地元の足として活躍しています。彼の地に行くと、ひと昔前の都営三田線や東急の車両が走っていて、20世紀末期の日本に戻ったかのような錯覚を感じることでしょう。
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tag : アジアの鉄道
中央アジア・宇宙への最寄り駅(1960年)

今日は、モスクワからタシケントへと向かう鉄道の途中にある小さな駅の話を。
上の画像は1960(S35)年にソ連で発行された鉄道地図帳の中の1ページです。
アラル海(今では大部分が干上がってしまって環境破壊の象徴になっていますね・・・)から東へ200キロほど進んだ赤丸で囲んだ場所、南にシルダリヤ川が流れる中央アジアの広野に建つその駅の名は「チューラタム」(チュラタムとも)。
「スターリンとともに」と正面に書かれた蒸気機関車が驀進してくる表紙が印象的な、1947(S22)年のソ連国鉄時刻表を見ると、上述の立地からもわかるように、1日1往復の各駅停車とわずかの急行列車しか停まらない田舎の駅に過ぎません。
もっとも、上りは急行もすべて通過していることを考えると、停車する下り急行列車も行き違いなど何か運転上のやむを得ない理由があっての停車だったのかもしれません。

(上)1947年ソ連国鉄時刻表の表紙。 (下)チューラタム駅の時刻(赤線部分。上下で1ページの掲載)

ところが、それから13年後の1960(S35)年の時刻表を見ると、あら不思議。列車本数は倍に増えていますが、それにもかかわらずすべての列車がこの駅に停車するようになっていました。
ほかに全列車が停車するような駅は、着時刻と発時刻がセットで書かれているような大きな駅ばかりであることから考えると、これは破格の扱いだと言えます。

(上)1960年ソ連国鉄時刻表の表紙。 (下)チューラタム駅の時刻(赤線部分。片道で1ページの掲載)

それもそのはず。13年の間に、この駅はある重要な施設の最寄り駅となっていたのでした。
その施設とは、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射基地。
1955(S30)年に建設されたチューラタム基地はソ連核戦略の最前線にして最高機密の場所でした。冷戦時代、ここで核弾頭を搭載したミサイルが西側陣営に狙いを定めていたわけです。
この駅からその北に位置する基地までは長大な引き込み線も設けられ、まだ航空輸送が発展途上だった当時、広野にポツンと建つ小さな駅はミサイルに関連した物資の輸送や人員の往来の拠点となったのでした。
時刻表の変化の裏にはそんな事情があったのです。
しかしこのチューラタム基地、一般には違った名前で呼ばれています。「バイコヌール宇宙基地」-そういうとピンと来る方も多いでしょう。
ミサイルというのは言い換えれば人工衛星を打ち上げるロケットのこと。今からちょうど半世紀前の1961(S36)年4月12日、ガガーリンはここから人類初の宇宙飛行に旅立ちました。
ここがバイコヌールと呼ばれるようになったのには、冷戦時代ならではのいきさつがあります。
ガガーリンの飛行の際、チューラタムにミサイル基地が存在することはアメリカの軍事筋にもバレていましたが、ソ連当局は機密保持の観点から一般の人々を欺瞞するために、ここから数百キロも離れたまったく別の街・バイコヌールをロケットの発射地点として発表したのです。
以来、チューラタムのミサイル基地は宇宙開発の舞台ではバイコヌール(Baikonur)として世に通用し、最終的にはそれがこの地域の名前としても公式に定められています。もはや冷戦が完全に終結した今日では、核戦略を担うという役割は消えましたが。
ちなみに、ここはロシアがカザフスタンから賃借しているという面白い土地です。
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連合軍専用列車の後身「特殊列車」(1952年)

もうひとつ、日本が占領時代から脱却する時期の資料を紹介します。戦後の一時期を駆け抜けた「特殊列車」の時刻表です。
終戦とともに占領軍が日本の鉄道の管理に強大な権限を行使したことはよく知られています。その結果、「連合軍専用列車」や「連合軍専用車両」が日本各地で運行されました。
「連合軍専用列車」は、1946(S21)年1月に東京~門司間で運行開始した"Allied Limited"にはじまり、同じく九州方面への"Dixie Limited"や札幌への"Yankee Limited"などが運行されました。
しかし、1952(S27)年の講和条約発効を契機に鉄道の管理は再び日本側に委ねられ、これらの専用列車は駐留軍関係者だけではなく日本人の利用にも開放されるようになります。こうして同年4月に誕生したのが「特殊列車」でした。
これは「特殊列車」が登場したときに国鉄(日本国有鉄道)が乗客に配布したチラシで、『日本初の国際列車だから日本人もそれにふさわしくキチンと振る舞いなさい』という旨の記述が、占領から脱して新しい時代へと踏み出す当時の日本の気概を感じさせます。
一方、外国人向けの英文には『席を離れるときは所持品に注意』との記述も。やはり時代が時代だけに、物騒な面もあったのでしょうか。もっとも、この資料からは直接は読み取れませんが、MPも警乗していたといいます。

上は、チラシの裏面で、「特殊列車」の時刻表が記載されています。
「特殊列車」は、その前身である連合軍専用列車をほぼそのまま引き継ぎ、東京~佐世保間二往復と横浜~札幌間一往復の運行でした。
特筆すべき点としては、英連邦軍の便を考えて呉線を経由していたこと、横浜から東京駅を経由して直接東北本線に乗り入れていた(※)こと、青森~函館間は青函連絡船で寝台車が直通していたことなどが挙げられます。
ちなみに、「連合軍専用列車」の運行時刻は国鉄が発行した外国人向けの英文時刻表にだけ掲載されていましたが、「特殊列車」となってからは交通公社などが発行する日本人向け時刻表にも記載されるようになりました。
さて今日、「特殊列車」に関する実物資料を目にする機会はほとんどないと言っても良いでしょう。ここではそんな資料をさらに2つほど紹介します。
一つ目は食堂車のメニュー。1953(S28)年8月のものです。(左半分が表、右半分が裏)

料理は当時の食堂車とあまり変わるところはありませんが、右中程に書かれた『酒類を扱っていない』(公務移動中の禁酒は軍隊の規律保持上の基本原則)ことと『駐留軍乗客むけの食事は軍兵站部が用意した食材で作られるので別献立』といった注記が、この列車の性格をよく表しています。
二つ目は1952(S27)年の「寝台使用証」。(同じく左半分が表、右半分が裏)

いったい、どういった目的でこの書面が必要だったのかは分かりませんが、住所氏名を記載するところを見ると、警備上の理由があったのかもしれません。
「特殊列車」という“名無しの列車”は、1954(S29)年には他の急行列車並みの名前が付けられ、もはや普通の日本人向けの列車と変わらない姿となって歴史の一ページに姿を消したのでした。
(※)昭和40年代に東北新幹線工事の関係で東北本線方面から東京駅への乗り入れが出来なくなって以降、こうした直通運転があったことは長らく忘れられていましたが、東京駅と上野駅を連絡する工事が現在行われており、数年後には再び東海道本線と東北本線の直通が復活する予定です。
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ローデシア鉄道(1950年)
世界史の中には往々にして、キワモノ国家とでもいうべき国が存在します。つまりは「お騒がせ国家」。自国内あるいは周辺国、時には世界を相手にトラブルを抱えていて、しばしばニュースに登場するといった感じです。
今日、紹介する時刻表は、かつてアフリカに存在したそんな国家、ローデシア(Rhodesia)のもの。
アフリカ諸国が次々と独立する中で、「植民地主義の象徴である白人政権」「古くからの住民である黒人」そして「宗主国イギリス」いう三つ巴の対立が長らく続き、経済制裁を課されるなど、約半世紀近く前に国際社会の耳目を集めていた国です。

ローデシアは元々、イギリスのアフリカ植民政策の過程で生まれた国家・地域でした。
名称がまったく変わってしまったので、いまや「あの人は今」みたいな存在になってしまった感がありますが、大別すれば現在のザンビアにあたる北ローデシアと、同じくジンバブエにあたる南ローデシアから構成されていました。前者はイギリス保護領、後者は自治政府という位置づけです。
ここに紹介した時刻表は1950(S25)年12月のものですが、南北の政体は異なるものの、鉄道は一括してローデシア鉄道によって運営されていました(実態は1947年に南ローデシア政府によって国有化された国有鉄道)。

のちにローデシアが国際的に注目を集めた一因としては、ちょうど南北の境に世界トップクラスの規模を誇る「ヴィクトリアの滝」があり、そんな一大観光地が問題の舞台となったということとも無縁ではないでしょう。
ローデシア鉄道が発行した絵葉書からも分かるように、滝のすぐ隣には南北ローデシアを結ぶ道路と鉄道の併用橋が架かっており、まだ航空便がなかった頃から比較的訪問しやすい環境が整っていました。

上の時刻表の端に書かれている、ヴィクトリア・フォールズ駅(VICTRIA FALLS)とリヴィングストン駅(LIVINGSTONE)の間が南北の境界で、上述の併用橋が架かっている場所です。

当時の鉄道連絡は南北ローデシア内にとどまらず、なんと南アフリカのケープタウンから南北ローデシアを経由して、ベルギー領コンゴのエリザベートヴィル(Elisabethville-現在のルブンバシ)にまで至っていたようです。
火曜の午後9時にケープタウンを出ると、エリザベートヴィルに着くのは日曜の午前9時。これはまさに、いわゆる「ケープ・カイロルート」の一部にあたります(ローデシアという名称自体、このケープ・カイロルートを推進したセシル・ローズにちなむもの)。
時刻表からは古き良き時代のスケールの大きな旅の夢すら感じ取れるローデシアの鉄道ですが、この頃からこの国は迷走を始めます。以下に要点だけ列挙しましょう。
1953(S28)年 南北ローデシアなどが「ローデシア・ニサヤランド連邦」を結成。
1963(S38)年 アパルトヘイト政策が原因で連邦解消。翌年に北ローデシアがザンビアとして独立。
1965(S40)年 イギリスの意向に沿わず、南ローデシアの白人政権が一方的に独立を宣言。
(以降、白人と黒人の内戦激化。白人政権の強行姿勢に国際的批判が高まる)
1980(S55)年 前年、白人と黒人の間で協定が成立。ジンバブエとして独立。

こうした情勢は、朝鮮半島のように南北の鉄道連絡の断絶を生みました。
上左に掲げた1968(S43)年1月のローデシア鉄道時刻表では、リヴィングストンから北の路線は姿を消しており、かつての南ローデシア域内と、同じく白人優位政策を取っていることから経済制裁中は頼みの綱だった南アフリカとの連絡のみの掲載となっています。
ローデシア経由でのザンビアの銅鉱石の積み出しは不可能となり、ザンビアは中国の支援を得てタンザニア方面への鉄道建設に乗り出します。(「タンザン鉄道」を学校で習いませんでしたか?)
参考までに上右に掲げた、白人スチュワーデスの姿が印象的な1971(S46)年のローデシア航空の時刻表も、当時のこの国の実態を象徴するものと言えるでしょう。
最後に、もう一度1950年の時刻表の表紙に目を移していただきましょう。
変わった形の蒸気機関車が列車を牽引しています。これはガーラット(ガラット)型と呼ばれるタイプのもので、石炭や水の搭載量が多い上に牽引力が大きく、変化に富む辺境の荒野の長距離運行にはもってこいの機種でした。
ローデシアや南アフリカはこのタイプの天国ともいうべき場所で、先に述べた政情不安はあったものの、旧イギリスの植民地ということで訪問への敷居が低かったのか、欧米から熱心な鉄道ファンが多数詰め掛けたこともあったそうです。
ファンの情熱は国際問題をも超えるということでしょうか・・・
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今日、紹介する時刻表は、かつてアフリカに存在したそんな国家、ローデシア(Rhodesia)のもの。
アフリカ諸国が次々と独立する中で、「植民地主義の象徴である白人政権」「古くからの住民である黒人」そして「宗主国イギリス」いう三つ巴の対立が長らく続き、経済制裁を課されるなど、約半世紀近く前に国際社会の耳目を集めていた国です。

ローデシアは元々、イギリスのアフリカ植民政策の過程で生まれた国家・地域でした。
名称がまったく変わってしまったので、いまや「あの人は今」みたいな存在になってしまった感がありますが、大別すれば現在のザンビアにあたる北ローデシアと、同じくジンバブエにあたる南ローデシアから構成されていました。前者はイギリス保護領、後者は自治政府という位置づけです。
ここに紹介した時刻表は1950(S25)年12月のものですが、南北の政体は異なるものの、鉄道は一括してローデシア鉄道によって運営されていました(実態は1947年に南ローデシア政府によって国有化された国有鉄道)。

のちにローデシアが国際的に注目を集めた一因としては、ちょうど南北の境に世界トップクラスの規模を誇る「ヴィクトリアの滝」があり、そんな一大観光地が問題の舞台となったということとも無縁ではないでしょう。
ローデシア鉄道が発行した絵葉書からも分かるように、滝のすぐ隣には南北ローデシアを結ぶ道路と鉄道の併用橋が架かっており、まだ航空便がなかった頃から比較的訪問しやすい環境が整っていました。

上の時刻表の端に書かれている、ヴィクトリア・フォールズ駅(VICTRIA FALLS)とリヴィングストン駅(LIVINGSTONE)の間が南北の境界で、上述の併用橋が架かっている場所です。

当時の鉄道連絡は南北ローデシア内にとどまらず、なんと南アフリカのケープタウンから南北ローデシアを経由して、ベルギー領コンゴのエリザベートヴィル(Elisabethville-現在のルブンバシ)にまで至っていたようです。
火曜の午後9時にケープタウンを出ると、エリザベートヴィルに着くのは日曜の午前9時。これはまさに、いわゆる「ケープ・カイロルート」の一部にあたります(ローデシアという名称自体、このケープ・カイロルートを推進したセシル・ローズにちなむもの)。
時刻表からは古き良き時代のスケールの大きな旅の夢すら感じ取れるローデシアの鉄道ですが、この頃からこの国は迷走を始めます。以下に要点だけ列挙しましょう。
1953(S28)年 南北ローデシアなどが「ローデシア・ニサヤランド連邦」を結成。
1963(S38)年 アパルトヘイト政策が原因で連邦解消。翌年に北ローデシアがザンビアとして独立。
1965(S40)年 イギリスの意向に沿わず、南ローデシアの白人政権が一方的に独立を宣言。
(以降、白人と黒人の内戦激化。白人政権の強行姿勢に国際的批判が高まる)
1980(S55)年 前年、白人と黒人の間で協定が成立。ジンバブエとして独立。

こうした情勢は、朝鮮半島のように南北の鉄道連絡の断絶を生みました。
上左に掲げた1968(S43)年1月のローデシア鉄道時刻表では、リヴィングストンから北の路線は姿を消しており、かつての南ローデシア域内と、同じく白人優位政策を取っていることから経済制裁中は頼みの綱だった南アフリカとの連絡のみの掲載となっています。
ローデシア経由でのザンビアの銅鉱石の積み出しは不可能となり、ザンビアは中国の支援を得てタンザニア方面への鉄道建設に乗り出します。(「タンザン鉄道」を学校で習いませんでしたか?)
参考までに上右に掲げた、白人スチュワーデスの姿が印象的な1971(S46)年のローデシア航空の時刻表も、当時のこの国の実態を象徴するものと言えるでしょう。
最後に、もう一度1950年の時刻表の表紙に目を移していただきましょう。
変わった形の蒸気機関車が列車を牽引しています。これはガーラット(ガラット)型と呼ばれるタイプのもので、石炭や水の搭載量が多い上に牽引力が大きく、変化に富む辺境の荒野の長距離運行にはもってこいの機種でした。
ローデシアや南アフリカはこのタイプの天国ともいうべき場所で、先に述べた政情不安はあったものの、旧イギリスの植民地ということで訪問への敷居が低かったのか、欧米から熱心な鉄道ファンが多数詰め掛けたこともあったそうです。
ファンの情熱は国際問題をも超えるということでしょうか・・・
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スーダン鉄道(1953年)

長年にわたる内戦の末、7月に南部が分離独立したスーダン。
ここに紹介するのは今から60年ほど前、スーダン自体がまだ独立していなかった頃の鉄道・汽船時刻表です。
1956(S31)年に独立する前のスーダンはエジプトとイギリスによって統治されており、イギリスが経営していたケープ植民地(現在の南アフリカに相当)とエジプトを陸路で結ぶ「ケープ・カイロルート」上に位置していたことから鉄道の敷設も早く、すでに19世紀には建設が始まっています。特に、エジプトとの境からハルツームまでのナイル川は大きく湾曲して回り道のようになっている上、いくつかの滝もあって舟運には適さないことから、鉄道の存在意義は大きいものでした。
スーダンの鉄道は、ネットワークといえるほどの稠密さはないものの、第二次大戦後には最終的に5000キロ近くの延長を誇るまでに拡大しました。

この時刻表は横長の紙を4つ折りにしたもので、全編英語で書かれたダイジェスト版であることから、欧米の旅行者をターゲットにしたものと推察されます。
スーダンの鉄道は首都・ハルツームを中心に、(1)北方のエジプト (2)南方のケニア・ウガンダ (3)東方の紅海 の3方面への連絡がその主要な役割であり、この時刻表にはそれらの路線の連絡時刻が掲載されていまました。
列車本数はいずれもあまり多くはなく、週に数本の運転。ハルツームからエジプト国境のワジハルファまでは丸一日の旅で、日曜朝にハルツームを出るとエジプトに着くのは木曜朝という気長な旅です。蒸気機関車に牽かれた混合列車が砂漠の中をゆっくりと走る様が目に浮かびます。

そして、スーダンの交通で忘れてならないのは、ナイル川を往来する客船航路でした。
ハルツームの南方・コスティから、現在の南スーダンの首都・ジュバを結ぶものがその中心的な路線。時刻表によると、これもまた約一週間もかかる旅だったことがわかります。
当時、ジュバからは自動車(Road Motor)乗り換えで、ナイロビ方面へ接続していました。
なお、この時刻表はもともと1953(S28)年に発行されたものですが、大方の時刻は変わらなかったとみえ、客船の出航日だけ別の紙を上から貼り付けて、1955(S30)年に使われたもののようです。
スーダンで内戦が勃発したのは奇しくもその年のこと。この時刻表は平和な時代の最後を飾る記念品と言って良いかもしれません。
ちなみに、スーダンの鉄道・航路の時刻は1960年代まではトーマス・クックの時刻表にも概略が載っていました。70年代に一時的に時刻表上から姿を消したこともありますが、その後、クックの国際時刻表が刊行されるとそちらに復活。しかし、内戦などの影響からか、90年代末期にはまともな時刻は載らなくなってしまいました。
最後に、スーダン鉄道が1935(S10)年頃に発行した旅行案内書"Visit the SUDAN"に掲載されている、スーダン鉄道の列車とコスティ~ジュバ間の白ナイルをゆく客船の写真を紹介しておきます。

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