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昔の空の旅-1964年7月の航空時刻表

大好評だった1961年6月の航空時刻表に引き続き、今回は1964(S39)年7月の航空時刻表を紹介します。

1964年といえば、言わずと知れた東京オリンピック・イヤー。
高度経済成長の真っ只中を走る日本の、あらゆる分野で劇的な進化がみられた年です。

今回紹介する素材は、現在、関西国際空港や大阪国際空港で売店やケータリング事業を営む株式会社朝日エアポートサービスが発行し、空港利用者に配布されていたものです。



この時刻表の第一のみどころ、それは「夢のジェット機」といわれたボーイング727が全日空の東京~札幌線に就航を開始しているということでしょう(時刻表では『727』と表記)。

1961(S36)年9月に日本航空が国内線初のジェット機としてコンベア880(時刻表では『JET』と表記)を導入して以来、まだプロペラ機だけで運航していた全日空は劣勢に置かれていましたが、ボーイング727の導入で遂にJALと互角の競争力を得ることができたのでした。
3発のエンジンを尾部に纏めたT字型尾翼という斬新なスタイルは、まさに「夢のジェット機」と呼ぶにふさわしく、吉永小百合と橋幸夫が歌ったキャンペーンソングなど、その大々的なプロモーションはいまだに語り草となっています。

じつはこの727、本当はJALとANAが揃って翌年の1965(S40)年に導入予定でしたが、一刻も早くライバルを出し抜きたいという思いでANAがボーイング社からリースして、この年の5月に導入したものでした。
この“フライング・リース”では一機しか導入されなかったため、検査の都合から日曜日は休航だったことがわかります。

当時のANAは幹線におけるJALとの競争の一方で、東京や大阪から地方に向かうローカル線の開発にも力を入れていました。
その路線展開はあたかもハブ(中心)から外縁へ照射される光線のようであったことから、「ビームライン」と呼ばれましたが、この時刻表にも東京から中国・四国、大阪から九州方面への路線が多くみられます。

ローカル線では、この年の4月に北日本航空・日東航空・富士航空の3社が合併して「日本国内航空」が設立されるという大きな変化がありましたが、運航する路線や機材はまだ合併前の3社それぞれのものをほぼそのまま引き継いでいる状態でした。

特に大阪を中心とする日東航空は水陸両用機を使用した運航で知られており、伊丹空港から紀州一周の名古屋線や、新居浜経由別府など空港のない場所への運航が行われていました。
ちなみに、機種欄の『GM』はグラマンG-73マラード、『G44』はグラマンG44ウィジョン水陸両用機を表します。

また、ローカル線でもうひとつ注目する点は、名古屋を基盤とする中日本航空がダグラスDC-3で大阪線・金沢線を運航していること。
前年の1963(S38)年に全日空から機材と一部路線を譲り受けて開始された同社の定期旅客輸送ですが、新幹線の開業など情勢の変化が原因で飛躍のきっかけをつかむことはできませんでした。結局、これは1965(S40)年早々までの短命に終わります。

JALとANAの2社のジェット機が出揃ったこの年以降、日本の空は本格的なジェット時代に突入。いよいよ大量高速輸送が本格化していくことになるのです。

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tag : 昭和史 日本航空の歴史 羽田空港の歴史

昔の空の旅-1961年6月の航空時刻表

非常に多い「昔の航空時刻表を見たい!」というリクエストにお応えして、何回かシリーズで昔の航空時刻表をアップしたいと思います。

まず初回は1961(S36)年6月に日本交通公社が発行したものです。



当時、日本には「日本航空」「全日本空輸」(全日空)といった大手のほか、伊豆諸島路線を運航する「日本遊覧航空」、北海道内に展開する「北日本航空」、関西を拠点に水陸両用機で西日本に路線を伸ばす「日東航空」といった中小航空会社が存在しました。
あとの2社は1964(S39)年に合併して「日本国内航空」となり、その後「東亜国内航空」→「日本エアシステム」と変遷して今日のJALに至る会社です。
「日本遊覧航空」は「藤田航空」となり、その後全日空に吸収される会社です。

当時はまだ国内線にジェット機は就航しておらず(日本航空が国内線にジェット機を初めて導入したのはこの年の9月のこと)、すべての便がプロペラ機による運航でした。

全日空はイギリスからリースしたバイカウント744が最新の機体ですが、ちょうどこの年の夏からは少し大型のバイカウント828、またオランダ製のフォッカーF-27「フレンドシップ」も導入されます。

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全日空は、バイカウントやコンベアといった新鋭機と古いDC-3では運賃に差があったことがわかります。
なお、日本航空と全日空が共通の冬期割引運賃を設定していたことが読み取れますが、当時はまだ航空輸送産業自体が成長期だった上、両者は新鋭機の導入によるサービス改善を巡って火花を散らしており、過当競争を避けようという意識が作用した結果がこうした横並びにつながったのです。

実際、時刻表の中で注目してほしいのは、東京~札幌間の以下のスケジュールです。

JAL605便 東京 9:35 → 札幌11:50 機種:ダグラスDC-7C
ANA51便  東京 9:30 → 札幌12:10 機種:コンベア440

JAL507便 東京11:00 → 札幌14:00 機種:ダグラスDC-4
ANA55便  東京11:30 → 札幌13:35 機種:バイカウント744 

JALとANAが使用機の違いによって抜きつ抜かれつの激しい競争を繰り広げていたことがわかるでしょう。

羽田・伊丹・八尾で遊覧飛行が行われていたのも時代を感じさせます。

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tag : 日本航空の歴史 羽田空港の歴史 昭和史

昔の空の旅-ツェッペリン飛行船で南米へ(後編)

前編につづいて、後編をお送りします。

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機上の楽しみといえば、朝昼晩の食事でしょう。とは言っても、やはり狭い機内ではメニューにも限度があるようで、どちらかというと質素な印象。
しかし、水素ガスを抱えた飛行船で、どうやってあたたかい食事の用意をしていたのでしょうか? 「グラーフ・ツェッペリン」の世界一周飛行の時、タバコは厳禁だったといいますから、いわゆる裸火は使えなかったのではないかと思います。

右下の写真はちょっと驚き。窓が開いています。しかし、せいぜい数百メートル程度上空を悠々と飛ぶ飛行船は、今日の高層ビルの屋上にいるのと同じだと考えれば、窓が開いても不思議ではないですね。

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いよいよブラジルの海岸へ到達。
キャビンは個室寝台車かビジネスホテルのよう。温水と冷水がでる洗面台を備えており、降機にむけての身支度も安心。

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クルーは郵便に記念スタンプを押すのに大忙しです。
このようにツェッペリン飛行船に搭載された郵便物は、今日でも趣味の世界では良い値で取引されています。

右ページ、リオデジャネイロ上空を飛ぶ写真からは、エンジンが格納されているゴンドラの構造がよくお分かりになるでしょう。

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いよいよ着陸。地上には飛行船から下ろされた繋留索を受け取る人々が多数待機しています。
やがて機体はそうした人々にコントロールされながらマストに係留され、3日間の旅が終わります。

ここリオデジャネイロからは、ルフトハンザ系の“コンドル”航空が、各地に接続しています。
右下の写真は当時の主力機であるドイツ製のユンカースJu 52。そのジュラルミンの波板という特徴ある外観は、リモワのスーツケースの宣伝によく取り上げられていて有名です。

ツェッペリン飛行船については、「時刻表歴史館」 http://www.tt-museum.jp/taiyo_0130_dzr1936.html でも触れていますので、あわせてご覧下さい。

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昔の空の旅-ツェッペリン飛行船で南米へ(前編)

前後2回に分けて紹介するのは、1935(S10)年頃にドイツのハンブルク・アメリカ汽船会社が発行した、ツェッペリン飛行船によるドイツ~ブラジル航路の案内パンフレットです。
今日では幻の交通機関となってしまった大型飛行船で南米へ旅立ってみましょう。



表紙に巨大な雄姿を浮かべているのは、爆発事故で知られる「ヒンデンブルク」と並んで有名な「グラーフ・ツェッペリン」。1929(S4)年には世界一周飛行の途上で来日したという経歴もある、ドイツが誇る大型飛行船です。

これから読者の皆様に乗船いただくのは、背景の地図で示されている、ドイツのフリードリヒスハーフェンからリオデジャネイロへの航路。
フリードリヒスハーフェンは、ツェッペリン飛行船の建造地であり運航の本拠地。いわば飛行船のふるさととも言える場所です。

パンフレットの中身を見ていく上で必要になるので、ここで簡単に飛行船の構造について解説しておきましょう。

葉巻型の胴体の中には、水素ガスが充填された気嚢が収納されています。その前方下面に突き出ているのが、操縦室と客室が並ぶキャビン。そこから目を後方に移していくと、胴体下面に何個か丸いものがぶら下がっていますが、これはエンジンが収納されているゴンドラです。エンジンにはそれぞれ後方にプロペラが付いており、これが推進力となる訳です。

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このパンフレットは土地柄、ドイツ語・スペイン語・ポルトガル語・英語の4カ国語で書かれています。英語の部分をお読みになれば、大体意味はお分かりになるかと思います。

第一ページ目はこの航路に関する簡単な紹介。ドイツ~南米は3日間の旅でした。
左上に掲載されているのは、フリードリヒスハーフェンにあった巨大な格納庫です。着飾った紳士淑女は、これから始まる空の旅に胸を躍らせていることでしょう。

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いよいよ出発。

飛行船の頭脳・操縦室は、舵を切るステアリングの形やチャートを広げる姿など、どちらかというと船のたたずまいです。むしろ“操舵室”と言った方が良いかもしれません。

エンジンが収納されているゴンドラには胴体から梯子が架けられており、飛行中でも必要があればエンジニアがそれを伝って降りられるようになっていました。

洋上を行く飛行船の全景は雄大なものですが、尾翼にはナチスのハーケンクロイツが描かれていることにも注目して下さい。但し、飛行船をプロパガンダに利用するということについては、ナチス内部でも人によって関心の度合いが異なっていたようですし、ましてエッケナーなど、純粋に民間の交通手段として飛行船の製造や運航に携わる当事者にとっては不快なこと以外の何物でもなかったといいます。

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キャビンの中がどうなっていたのかは、上の配置図をご覧下さい。
前方から操縦室・航法室・無線室・キッチン・食堂・客室・洗面所と並んでいました。4人部屋が2つ、2人部屋が8室あったようですが、一人旅の人はどうしたのでしょうか?

『ツェッペリンに乗ると、船や列車や車とは世界が違って見えます』と書かれていますが、地上の風物がはっきりと見える旅というのは、現代の我々からすると雲海しか見えないジェット機の旅とも異なりますね。

ツェッペリン飛行船については、「時刻表歴史館」 http://www.tt-museum.jp/taiyo_0130_dzr1936.html でも触れていますので、あわせてご覧下さい。

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昔の空の旅-おマヌケ印刷物3連発!

国際線を飛ばすような航空会社は、その国を代表する立場で広告宣伝には力を入れるものです。
自国を魅力的に見せようとするのは当然ですが、その航空会社が飛んでいく就航先に対しても、やはりそうした思いは同じでしょう。

そんな訳で1950年代にエールフランスが制作した極東地域の宣伝リーフレットがこれ。
エールフランスというと、サヴィニャックなど名だたるイラストレーターが筆を振るった、オシャレでアートなポスターが知られていますが、この表紙絵も署名が入っているところをみると、それなりの作家による作品と思われます。

極東の風物が盛りだくさんで賑やかな表紙ですが・・・・



右上の「パチンコ」っていうのはなんでしょう?

漢字が書かれたTシャツを意味は分からず雰囲気だけで着ている外国人のように、目についた日本語をたまたま描いちゃったのでしょうが、日本(東洋の文字)のイメージが「パチンコ」というのは、エールフランスらしからぬ失態ですね。

しかしこの表紙、作者の意図か勘違いかは抜きにして、日本風の赤い太鼓橋の真ん中で出会っている男女がベトナム風だったり、インドの象の背中で力士が相撲を取っていたり、富士山を背に東南アジアのジャンクが浮かんでいたりと、とにかく強烈にカオスです。
ヨーロッパでアジアが「極東」として一括りにエキゾチシズムだけでしか見られていなかった時代の名残に思えます。

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こんどは緊急事態に関して。

飛行機に乗ると前の座席の背に「安全のしおり」が入っていますよね。たいていはラミネートされたカードで、非常口の位置や開け方、救命胴衣の着用方が載っています。
しかし、「安全のしおり」は昔からそうした形態だったわけではありません。

昔の「安全のしおり」は、各航空会社が独自に制作した紙のパンフレットでした。それも単独で作られているものとは限らず、ルートマップが載った冊子や機内の案内に一緒に記載されている場合もありました。
今日のような形態になったのは1970年代頃で、内容も今では航空機メーカーが機体のタイプごとに標準版を定め、各航空会社が一部だけ変えて使うケースも少なくありません。

仮に、大海原の真ん中で飛行機に不具合が起きたとき、エンジンの信頼性が向上した現在ではボーイング777などの双発機でもETOPSといって、180分など一定時間以内に最寄りの空港に着陸できるような場所を飛ぶことが元々考慮されています。
しかし、そのような基準が無かったプロペラ機時代は「悪天候の中、山にぶつかる」ことと並んで、「エンジン故障で海の真ん中に不時着水する」ことが航空旅客の不安事だったのです。

1960年代、航空会社は乗客のそうした不安を少しでも和らげようと「安全のしおり」づくりにも努力していました。
その成果が下に示す2点の資料です。

まずはハワイアン航空発行のもの。



そりゃ、水鳥は確実に着水できますわ・・・

不時着水はそれくらい心配いらないよ、と言いたいようです。
左のページでは自社がいかに安全の記録を打ち立ててきたかが滔々と説明されています。

次はアリタリア航空のもの



緊急事態に人魚をナンパしてどうする!!

ここまでメルヘンで攻めるイタリア人のセンスには苦笑するしかないですね。
しかし、肝心の救命胴衣の着用方がいまひとつ抽象的過ぎませんか?

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昔の空の旅-ウェーク島(ウェーキ島)案内

航空機の航続性能が現在のように大陸間をノンストップで飛べるだけの距離に満たなかった時代、中部太平洋を横断するには途中で着陸して給油しなければなりませんでした。
特に、ジェット機が登場する前の1950年代までは2カ所での給油が必要であり、そんな寄港地としてハワイのホノルルと並んで知られていたのがここに紹介するウェーク島(Wake island)。フィリピンとハワイの間に浮かぶアメリカ領の孤島です。



ところで、給油のための2時間程度の寄港とはいえ、何もない南海の島へ足跡を印すという体験は、ただでさえ海外旅行が珍しかった時代にさらに輪をかけて得難いものであったせいか、往年の航空会社はウェーク島に関する紹介リーフレットを発行していました。

上は、日本航空が1954(S29)年の太平洋線開設からしばらく経った頃、座席にセットした機内案内資料類(フライト・パケット)に同封して配布していた「ウェーキ島御案内」。島全体やターミナルビルの概略図などのほか、島のプロフィールが掲載されています。
表紙の写真は当時の国際線主力機であるダグラスDC-6Bです。

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「空飛ぶホテル」とも言われたボーイング・ストラトクルーザーの機首が表紙を飾るのは、パンアメリカン航空のもの。パンナムはウェーク島開発の立役者といっても良いほど、この島には縁が深いエアラインでした。
1930年代、パンナムは太平洋横断の飛行艇空路を開設するにあたり、ウェーク島に乗客用のホテルを建設。当時は航法援助施設が未整備だったため夜間の洋上飛行ができず、夜はどこかに着陸して宿泊する必要があったからです。

しかし、第二次大戦中にウェーク島は日米の激戦の舞台となり、これらの施設は破壊されてしまいます。大戦中の一時期は日本軍が占領していましたが、最終的にはアメリカが奪還。
戦後は軍やFAA(連邦航空局)によって、飛行艇ではなく陸上機のための施設が整備され、JALやパンナムそして北米と極東を往来する米軍機などにとって欠かせない寄港地となりました。

戦勝国としての意識が強いのか、パンナムのリーフレットは島の施設案内よりも、第二次大戦を中心とした歴史についての記述が主体です。

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最後のひとつは、1950年代に活躍したアメリカの不定期エアラインであるトランスオーシャン航空(現存せず。沖縄を中心に飛んでいる日本トランスオーシャン航空とも無関係)が発行したもの。

表紙の写真には、なにやら海岸にそそり立つ岩のような物体が写っていますが、これは戦時中の1943(S18)年3月28日に米軍の攻撃で掴座し、その後全損した日本郵船の客船「諏訪丸」(戦前にヨーロッパ航路で活躍)の残骸。沈没位置は、JALのリーフレットに“スワ丸”として示されています。

ちなみにウェーク島には、これらのリーフレットが発行された頃に日本側が建立した戦没者慰霊碑(「太平洋の波 永遠に静かなれ」と刻まれている)がありますが、その建立者にはJALのほかトランスオーシャン航空も名を連ねています。

こうして、太平洋の往来に欠かせなかったウェーク島ですが、1950年代末期に航続距離が長いダグラスDC-7Cが就航すると、太平洋横断はホノルルのみ寄港のワンストップの時代に突入します。
それでもジェット時代の初期までは、偏西風に逆らって飛ぶ西行き便で、冬期に燃料消費が著しいとウェーク島に臨時に着陸することもある旨が時刻表に記載されていましたが、やがて技術の進歩でそれも解消され、民間旅客機のウェーク島寄港は完全に歴史のひとコマとなりました。

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昔の空の旅-日付変更線通過記念証

太平洋を横断するときに必ず通るのが経度180度、すなわち日付変更線です。
海外旅行がまだ一般的ではなかった時代、太平洋を越えてアジアとアメリカの間を往来するということは人生の一大イベントでした。
そこで、かつては太平洋を横断するパッセンジャーへの記念品として、船会社や航空会社が「日付変更線通過記念証」なるものを発行していました。

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ここに紹介するものは、1957(S32)年1月23日に発行された日本航空のもの。画像だけではよく感じとれないと思いますが、単なる印刷ではなく、木版画の風合いを生かした手の込んだ作りです。
日本人の海外旅行がまだ自由化されていなかった当時、日本航空の太平洋線はアメリカ人の需要を取り込むことも重要であり、JALは外国人に受けるような純日本風のデザインを意識して随所に盛り込もうとしていましたが、日付変更線通過記念証はその最たるもののひとつと言えるでしょう。

こうした記念証には日付と機長あるいは船長のサインが入るのですが、日本航空の場合は搭乗機も記載されるのが慣例でした。
画像をご覧いただくとお分かりのように、この日はDC-6Bの"City of Osaka"(JA6205)による飛行だったようです。

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ちなみに、機長のサインは"Robert G Judd"と読み取れますが、この人はJALの草創期・まだ日本人乗員が充分に揃っていなかった時代に活動した外国人パイロットのひとりで、1954(S29)年2月にJALが戦後はじめての国際線を運航開始したときに発行されたパンフレットにも「典型的なJALのパイロット」として写真入りで紹介されています。

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こうした記念証は、船の世界における赤道祭にも通じるものとして、神様が乗客の通過を許可し、祝福するような体裁になっていることも多く、この場合は見てのとおり七福神がモチーフになっています。裏面はそれらの英文での説明です。

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しかし、どこの会社もここまで豪華なものを出していた訳ではないようで、同じ頃のノースウエスト航空のものはいたってシンプル。神様の影は見えず、「国際日付変更線クラブ」と結構あっさりした表現になっています。合理思考のアメリカらしいといえばらしいですが。

航空会社が乗客に記念証を出すという習慣は、日付変更線に限らず赤道や北極の通過でも行われましたが、乗客名などをいちいちタイプする手間もあり(なお、上の画像ではプライバシーへの配慮から氏名は大部分消去しています)、ジェット機の時代になって乗客数が増大するとあらかじめ印刷されたものを配布するだけの対応になり、やがて海外旅行が珍しいものでは無くなると各社とも記念証の発行自体をやめてしまいました。
単なる一枚の紙ですが、こうした気の利いたサービスが今の空の旅にないのは残念なことです。

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昔の空の旅-JALのDC-7C

第二次大戦後、航空旅行は大きな進化を遂げました。当館では随時「昔の空の旅」と題して、今から半世紀以上前、ちょうどプロペラ機からジェット機への転換という大きな変化があった時代を各種資料から回顧してみたいと思います。
まず第一弾は、JALにとって最後の国際線むけレシプロ四発機となったDC-7Cについてです。

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1954(S29)年にJALの太平洋線を拓いたDC-6Bと、ジェット時代の最初の主力機・DC-8との間の「つなぎ」として投入されたDC-7Cは、1958(S33)年の東京~サンフランシスコ線を皮切りに、ロサンゼルス線・シアトル線に就航しました。これはその頃に発行された案内パンフレット。
この時代にこれだけカラー写真がふんだんに使われているのは、日本で発行された航空会社のパンフレットとしては珍しいものです。

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座席配置図(コンフィギュレーション)によると、前方がツーリストクラス・後方がファーストクラス(図中ではデラックス・セクションと表記)という、当時のスタンダードに則った配置だったことがわかります。こうしたクラス配置には、ファーストクラスがプロペラから離れた位置にあることでより静粛性が保てるというメリットがありました。
座席は2列+3列または2列+2列で、それこそ今日の小型機と同じですが、国際線というものが“セレブな”乗り物だった時代だけに、ファーストクラスに寝台(図の番号7)とラウンジ(図の番号9)を備えているのはさすがです。

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当時のJALはファーストクラスを「きく」、ツーリストクラスを「さくら」と称していましたが、こちらは「きく」の様子。窓に障子が嵌まった準和風デザインのラウンジの様子がわかります。
JAL名物の「ハッピ」はこの時代からあったのですね。

DC-7Cは就航からわずか2年あまりで国際線から退いて国内線に転用されてしまいましたが、航空旅行がジェット機による大量輸送時代に突入する前、プロペラ機が太平洋線に就航していた古きよき時代の最後を飾るにふさわしい内容を備えた名機だったといえるでしょう。

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プロフィール

ttmuseum

Author:ttmuseum
「20世紀時刻表歴史館」館長。
サラリーマン稼業のかたわら、時刻表を中心とした交通・旅行史関連資料の収集・研究・執筆活動を行う。

<著作>
「集める! 私のコレクション自慢」
(岩波アクティブ新書・共著)

「伝説のエアライン・ポスター・アート」
(イカロス出版・共著)

「時刻表世界史」(社会評論社)

その他、「月刊エアライン」「日本のエアポート」(いずれもイカロス出版)、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)などに航空史関係記事を執筆。

<資料提供>
「昭和の鉄道と旅」(AERAムック)
「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)
「ヴィンテージ飛行機の世界」(PHP)
の他、博物館の企画展や書籍・TVなど多数。

「時刻表世界史」で平成20年度・第34回交通図書賞「特別賞」を受賞。

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