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明石フェリー・鳴門フェリー(1954年)

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今日では、離島も含め日本各地ほとんどどこへでもクルマで出かけることができるのが当たり前になっています。
そんな「クルマ社会」のあけぼのに関わる時刻表を紹介しましょう。

1954(S29)年4月、本州(明石)と淡路島、淡路島と四国(鳴門)の間に2つの公営カーフェリーが就航。これは、当時航路を経営していた兵庫県と徳島県が発行した案内リーフレットです。
この航路は1952(S27)年に公布された道路整備特別措置法(旧)で「利便性が著しい道路は、地方自治体が国から融資を受けて整備を実施し、完成後は整備に要した費用を償還する目的で有料道路として管理する」というスキームが可能となったことによって開設されたものでした。
この区間は神戸と徳島を結ぶ国道28号線の一部なのですが、いわゆる「海上国道」部分をなぞるフェリーの嚆矢といえます。道路法によれば、こうした「渡船」も道路の一種なのです。

当時のフェリーは艀(はしけ)にやぐらが立ったような簡素で無骨な造りで、今日のように格好良いものではありませんが、本州・四国と連絡された喜びから地元・淡路島はたいへんなお祭り騒ぎだったようです。
もっとも、フェリーは島の生活の利便向上だけではなく、四国の農産物などの輸送や観光バスによる団体輸送に威力を発揮し、西日本の移動地図を塗り替えるようなインパクトを与えました。

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リーフレットはお役所が発行した資料だけに内容そのものは非常に事務的ですが、開設当初は一日に6往復が運航され、両方の航路の連絡も意識されていたことが読み取れます。
既存の船会社への配慮から、自動車と一緒でなければ乗船できず、まさに自動車のためにある航路だったようです。なお、航路は県が経営していましたが、実際の運航業務は地元の航送組合の担当でした。

その後、1956(S31)年に道路整備特別措置法の新法が制定され、有料道路の建設・管理を行う日本道路公団が発足すると、この航路は同公団に引き継がれました。
下に掲載した画像は、道路公団が管理していた時代、1970(S45)年頃の時刻表です。

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本四架橋計画の前史ともいえる明石・鳴門フェリーは、宇野~高松間と並んで四国連絡の大動脈として活躍しましたが、民間によるフェリーの乱立や航空便の頻発など激しい環境変化にさらされ、道路公団の管理する航路としては鳴門が1978(S53)年、明石が1986(S61)年に幕を閉じています。
その後、1998(H10)年には明石海峡大橋が開通。淡路島を経由しての本四連絡は悲願が実り、橋の時代にバトンタッチが完了したのでした。

その後も民営フェリーの運航は続きましたが、昨今の不況や高速道路料金の見直しなどの影響により、明石~淡路間の通称「たこフェリー」が2010(H22)年11月に運休に至ったのは記憶に新しいニュースです。

【おすすめの一冊】
「淡路島の20世紀 海と陸の交通」(洲本市立淡路文化史料館 2003)
 同館で開催された特別展の図録。淡路島を中心とした航路のほか、島内の私鉄についても言及。

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スーダン鉄道(1953年)

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長年にわたる内戦の末、7月に南部が分離独立したスーダン。
ここに紹介するのは今から60年ほど前、スーダン自体がまだ独立していなかった頃の鉄道・汽船時刻表です。

1956(S31)年に独立する前のスーダンはエジプトとイギリスによって統治されており、イギリスが経営していたケープ植民地(現在の南アフリカに相当)とエジプトを陸路で結ぶ「ケープ・カイロルート」上に位置していたことから鉄道の敷設も早く、すでに19世紀には建設が始まっています。特に、エジプトとの境からハルツームまでのナイル川は大きく湾曲して回り道のようになっている上、いくつかの滝もあって舟運には適さないことから、鉄道の存在意義は大きいものでした。

スーダンの鉄道は、ネットワークといえるほどの稠密さはないものの、第二次大戦後には最終的に5000キロ近くの延長を誇るまでに拡大しました。

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この時刻表は横長の紙を4つ折りにしたもので、全編英語で書かれたダイジェスト版であることから、欧米の旅行者をターゲットにしたものと推察されます。
スーダンの鉄道は首都・ハルツームを中心に、(1)北方のエジプト (2)南方のケニア・ウガンダ (3)東方の紅海 の3方面への連絡がその主要な役割であり、この時刻表にはそれらの路線の連絡時刻が掲載されていまました。

列車本数はいずれもあまり多くはなく、週に数本の運転。ハルツームからエジプト国境のワジハルファまでは丸一日の旅で、日曜朝にハルツームを出るとエジプトに着くのは木曜朝という気長な旅です。蒸気機関車に牽かれた混合列車が砂漠の中をゆっくりと走る様が目に浮かびます。

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そして、スーダンの交通で忘れてならないのは、ナイル川を往来する客船航路でした。
ハルツームの南方・コスティから、現在の南スーダンの首都・ジュバを結ぶものがその中心的な路線。時刻表によると、これもまた約一週間もかかる旅だったことがわかります。
当時、ジュバからは自動車(Road Motor)乗り換えで、ナイロビ方面へ接続していました。

なお、この時刻表はもともと1953(S28)年に発行されたものですが、大方の時刻は変わらなかったとみえ、客船の出航日だけ別の紙を上から貼り付けて、1955(S30)年に使われたもののようです。
スーダンで内戦が勃発したのは奇しくもその年のこと。この時刻表は平和な時代の最後を飾る記念品と言って良いかもしれません。

ちなみに、スーダンの鉄道・航路の時刻は1960年代まではトーマス・クックの時刻表にも概略が載っていました。70年代に一時的に時刻表上から姿を消したこともありますが、その後、クックの国際時刻表が刊行されるとそちらに復活。しかし、内戦などの影響からか、90年代末期にはまともな時刻は載らなくなってしまいました。

最後に、スーダン鉄道が1935(S10)年頃に発行した旅行案内書"Visit the SUDAN"に掲載されている、スーダン鉄道の列車とコスティ~ジュバ間の白ナイルをゆく客船の写真を紹介しておきます。

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SWISSAIR モスクワ~ニューヨーク乗り継ぎ時刻表(1960年)

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1960(S35)年といえば米ソ冷戦真っ最中ですが、その当時にスイス航空が発行した、モスクワ~ニューヨーク間の時刻表です。
すべてロシア語で書かれているのでソ連人に対して発行されたものということになりますが、表紙は星条旗をあしらった摩天楼やネイティブアメリカンの肖像などアメリカ一色。時代を考えると珍品と言えるのではないでしょうか。

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スイス航空はチューリヒ~ニューヨーク間の大西洋線を運航していましたが、中立国とはいえモスクワに乗り入れてはいなかったので、この時刻表にはプラハとチューリヒでアエロフロートやチェコ航空と乗り継いでモスクワ~ニューヨーク間を結ぶ時刻が掲載されています。
それにしても当時、モスクワとアメリカを往来するソ連人なんていたのでしょうかね?

ところでこの前年・1959(S34)年9月にはソ連の大物が訪米しています。当時ソ連の最高指導者だったフルシチョフ。この訪米は、表面的には東西両陣営の平和共存という方向性を世界に対して発信する結果をもたらしたことは疑う余地はないでしょう。
ところがその翌年、まさにこの時刻表が発行された前月の5月には皮肉なことに、アメリカの偵察機・U-2がソ連上空で撃墜され、アイゼンハワー大統領の訪ソが吹っ飛んでしまいます。
米ソは首脳会談を重ねる一方で、1961(S36)年のベルリンの壁構築や1962(S37)のキューバ危機といった不安要素を抱えながら共存していました。

ちなみに当時、西側の航空会社でソ連国内向けにロシア語による時刻表を発行したのは、私が知る限り他にはエールフランスの例があります。これも、モスクワ~パリ線とこれに接続する各方面の時刻が掲載されていていました。
なお、アメリカのパンアメリカン航空によってモスクワ~ニューヨーク間に直行定期便が開設されるのは1968(S43)のことです。

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昔の空の旅-日付変更線通過記念証

太平洋を横断するときに必ず通るのが経度180度、すなわち日付変更線です。
海外旅行がまだ一般的ではなかった時代、太平洋を越えてアジアとアメリカの間を往来するということは人生の一大イベントでした。
そこで、かつては太平洋を横断するパッセンジャーへの記念品として、船会社や航空会社が「日付変更線通過記念証」なるものを発行していました。

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ここに紹介するものは、1957(S32)年1月23日に発行された日本航空のもの。画像だけではよく感じとれないと思いますが、単なる印刷ではなく、木版画の風合いを生かした手の込んだ作りです。
日本人の海外旅行がまだ自由化されていなかった当時、日本航空の太平洋線はアメリカ人の需要を取り込むことも重要であり、JALは外国人に受けるような純日本風のデザインを意識して随所に盛り込もうとしていましたが、日付変更線通過記念証はその最たるもののひとつと言えるでしょう。

こうした記念証には日付と機長あるいは船長のサインが入るのですが、日本航空の場合は搭乗機も記載されるのが慣例でした。
画像をご覧いただくとお分かりのように、この日はDC-6Bの"City of Osaka"(JA6205)による飛行だったようです。

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ちなみに、機長のサインは"Robert G Judd"と読み取れますが、この人はJALの草創期・まだ日本人乗員が充分に揃っていなかった時代に活動した外国人パイロットのひとりで、1954(S29)年2月にJALが戦後はじめての国際線を運航開始したときに発行されたパンフレットにも「典型的なJALのパイロット」として写真入りで紹介されています。

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こうした記念証は、船の世界における赤道祭にも通じるものとして、神様が乗客の通過を許可し、祝福するような体裁になっていることも多く、この場合は見てのとおり七福神がモチーフになっています。裏面はそれらの英文での説明です。

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しかし、どこの会社もここまで豪華なものを出していた訳ではないようで、同じ頃のノースウエスト航空のものはいたってシンプル。神様の影は見えず、「国際日付変更線クラブ」と結構あっさりした表現になっています。合理思考のアメリカらしいといえばらしいですが。

航空会社が乗客に記念証を出すという習慣は、日付変更線に限らず赤道や北極の通過でも行われましたが、乗客名などをいちいちタイプする手間もあり(なお、上の画像ではプライバシーへの配慮から氏名は大部分消去しています)、ジェット機の時代になって乗客数が増大するとあらかじめ印刷されたものを配布するだけの対応になり、やがて海外旅行が珍しいものでは無くなると各社とも記念証の発行自体をやめてしまいました。
単なる一枚の紙ですが、こうした気の利いたサービスが今の空の旅にないのは残念なことです。

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米軍政下の釜山地方交通局(1945年)

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100年以上におよぶ朝鮮半島の鉄道史の前半は、アジア現代史と密接に関わる激動の歩みでした。
日本など外国の資本によって鉄道整備が開始された揺籃期。1910(M43)年の日韓併合以降には、大陸の鉄道との関連から、満鉄によって経営された時期もあります。その後、朝鮮総督府による管理が第二次大戦が終わるまで続くこととなりました。

ここに紹介する時刻表は、大戦の終結を受けて朝鮮半島の南半分にアメリカによる軍政が敷かれた頃のもの。裏の文字が見えそうな薄い紙に印刷された20ページの冊子ですが、業務用ということで旅客列車以外だけではなく、貨物列車等も記載されています。

米軍による軍政時代とはいうものの、鉄道の運行は現地の人々によって行われていたらしく、時刻表の本文はすべて漢字による表記で特に英語は見あたりません。ハングルはというと、裏表紙に記載されている発行所の所在地で唯一、『○○番の×』の「の」に相当する文字が使われています。

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中を開くと、京城(ソウル)~釜山間の京釜線(ただし、大田以南のみの掲載)をメインに、釜山周辺の路線のみが掲載されています。
現在は韓国版新幹線・KTXが2時間台で一日に約50往復も運行されるソウル~釜山間には、旅客列車がたった2往復しか走っていません。これはほぼ終戦当時の水準と同様です。一方、貨物列車はというと5往復の運行。どちらかというと、人の移動よりも物流の大動脈として鉄道が重視されていたことが伺えます。

日本人にとって1945(S20)年の朝鮮半島というと、引揚げという言葉がまず浮かぶのではないでしょうか? おそらくはここに掲載された列車の中にも、日本への帰還をめざして命からがら北方から避難してきた人々の姿があったことでしょう。

この後、1946(S21)年に交通局は「運輸局」を経て「運輸部」に改称。1948(S23)年に大韓民国が成立すると、北緯38度以南の鉄道はようやく韓国政府による管理となり、現在は公社によって運営されています。

【おすすめの一冊】
「鉄道ピクトリアル 229号」(鉄道図書刊行会 1969年10月)
 大久保邦彦氏による連載『大韓民国鉄道の現況』を掲載。『韓国鉄道概史』が参考になる。

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tag : 韓国国鉄朝鮮戦争朝鮮総督府鉄道アジアの鉄道

昔の空の旅-JALのDC-7C

第二次大戦後、航空旅行は大きな進化を遂げました。当館では随時「昔の空の旅」と題して、今から半世紀以上前、ちょうどプロペラ機からジェット機への転換という大きな変化があった時代を各種資料から回顧してみたいと思います。
まず第一弾は、JALにとって最後の国際線むけレシプロ四発機となったDC-7Cについてです。

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1954(S29)年にJALの太平洋線を拓いたDC-6Bと、ジェット時代の最初の主力機・DC-8との間の「つなぎ」として投入されたDC-7Cは、1958(S33)年の東京~サンフランシスコ線を皮切りに、ロサンゼルス線・シアトル線に就航しました。これはその頃に発行された案内パンフレット。
この時代にこれだけカラー写真がふんだんに使われているのは、日本で発行された航空会社のパンフレットとしては珍しいものです。

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座席配置図(コンフィギュレーション)によると、前方がツーリストクラス・後方がファーストクラス(図中ではデラックス・セクションと表記)という、当時のスタンダードに則った配置だったことがわかります。こうしたクラス配置には、ファーストクラスがプロペラから離れた位置にあることでより静粛性が保てるというメリットがありました。
座席は2列+3列または2列+2列で、それこそ今日の小型機と同じですが、国際線というものが“セレブな”乗り物だった時代だけに、ファーストクラスに寝台(図の番号7)とラウンジ(図の番号9)を備えているのはさすがです。

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当時のJALはファーストクラスを「きく」、ツーリストクラスを「さくら」と称していましたが、こちらは「きく」の様子。窓に障子が嵌まった準和風デザインのラウンジの様子がわかります。
JAL名物の「ハッピ」はこの時代からあったのですね。

DC-7Cは就航からわずか2年あまりで国際線から退いて国内線に転用されてしまいましたが、航空旅行がジェット機による大量輸送時代に突入する前、プロペラ機が太平洋線に就航していた古きよき時代の最後を飾るにふさわしい内容を備えた名機だったといえるでしょう。

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近海郵船小笠原航路(1935年)

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世界自然遺産に登録が決まった小笠原諸島。本土とはまったく異なった自然の姿を見ることができるのがその大きな魅力でしょう。しかしそれだけではなく、一昼夜かかる船旅しかそこに到る足がなく、一度渡るとほぼ一週間近くの旅になるという浮世離れした立地もその魅力を後押ししていると私は思います。
しかし、小笠原諸島は同時に悲しい歴史も背負っています。第二次大戦中は日米の激戦の舞台となり、戦後はアメリカによる統治時代を経て未だに自由な往来が出来ない硫黄島。
ここに紹介するのは、そんな硫黄島にもまだ一般住民の暮らしがあった時代の小笠原航路の運航予定表です。

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予定表をご覧いただくとわかるように、当時の小笠原航路は八丈島経由で東京と父島・母島を往復しており、その中の一部が二ヶ月に一度延航する形で硫黄島行き定期便が運航されていました(なお、これ以外にも母島~硫黄島間だけの船便があった模様)。
硫黄島は3つの島から成り立っています。予定表で「中硫黄島」と書かれているのがいわゆる硫黄島。この他に北硫黄島と南硫黄島があります。
ところで、よく見ると南硫黄島へ寄港する便は一年にたった一便、しかも東京に戻る片道しかありません。これは一体どういうことなのでしょうか? この解答は小笠原村のHPに以下のように記載されています。

『1889年(明治22年)、南硫黄島の海岸において漂着者3名が発見されて生還したため、1895年(明治28年)より硫黄島へ来航する定期船は、年に一航海だけ南硫黄島まで延航し、島の周囲を回って漂着者の在島の有無を確認するようになった。』

南硫黄島は当時から現在に至るまで無人島です。そこに往来する足としてではなく、図らずも流れ着いてしまった人を収容するための寄港だったのですね。

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無人島というと、本航路が寄港する「鳥島」も今は無人ですが、戦前には人が住んでいました。1933(S8)年まではアホウドリ(上に掲載した戦前のリーフレットでは「アホー鳥」と記載)の捕獲が禁じられていなかったので、食肉や羽毛目当ての業者が鳥島に居たからです。ちなみに、パンフレットで「正覚坊」と書かれているのは「アオウミガメ」のこと。
『未知の世界の絵巻物』という表現、なかなか秀逸です。

【おすすめのリンク】
「小笠原海運」公式サイト
 沿革のページに過去の使用船舶の写真も掲載されています。

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NEW YORK CENTRAL RAILROAD(1939年)

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きょうは「エコ」?な話を。

ここに紹介する時刻表は、かつてアメリカを代表する鉄道会社のひとつだった「ニューヨーク・セントラル鉄道」の業務用のもの。発行は第二次大戦直前の1939(S14)年6月です。
同社はその名の通り、ニューヨークからシカゴやボストンなどへの列車を運行していましたが、この時刻表はその中でもマンハッタンを中心とした、いわば同社にとって総本山とも言うべき地域の運行時刻が収録されています。

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ところで、なぜ一般旅客用のものではなく、関係者向けの部内資料を取り上げる必要があるのかと疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。それは、「貨物列車」の時刻が見たかったからです。
今日注目したいのは、マンハッタンの北隣に位置するスピュイテン・デュイビル(Spuyten Duyvil)から、マンハッタンの心臓部・西30丁目までを結ぶ「ウエストサイド線」。ウエストサイドというと、ハドソン川に沿った大都会の片隅-薄汚れた工場街とスラム-不良少年が愛と暴力の青春を謳歌するテリトリー・・・とまあ、ミュージカルや映画のイメージが沸いてきますが、そんなところに貨物専用線が通っていて、そこを往来する郵便列車やミルク列車が大都会の生活を支えていたわけです。

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さて、時刻表本文には残念ながら30丁目までしか掲載されていませんが、この路線はさらに南へと延びていました。高架で街中を貫き、時にはビルをぶち抜いてローワー・マンハッタンまで達するこの線路は1934(S9)年に完成し、俗に「ハイライン」(High Line)と呼ばれて親しまれました。入換扱いということでこの区間の列車は時刻表に載っていなかったようです。
下の画像はニューヨークの港湾局が1956(S31)年に発行した地図から、ハイライン部分のクローズアップです。途中で分岐する引き込み線もあったことがわかります。

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下は同じく1956年の地図からマンハッタンの全体図。マンハッタン北部(スペースの都合上、地図の右が北で左が南)からハドソン川沿いに南下し、30丁目の操車場を経てさらに続く線路が赤線で示されています。

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戦後、鉄道による貨物輸送が斜陽化するとウエストサイド線から貨物列車は姿を消します。ハイラインは1980(S55)年を以って役目を終え、草木が生い茂る長大な空き地になってしまいました。そうなると「無用の長物は撤去してしまえ」という意見が出るのは自然の流れ。犯罪多発都市と言われた80年代から90年代のニューヨークでは、そうした廃墟が犯罪の温床になると考えられていたので、当局も撤去に前向きでした。ちなみに、30丁目以北は旅客線に転用されて今に至っています。

そんなハイラインに対する風向きが大きく変わったのは21世紀に入ってからのこと。撤去論の一方で、ハイラインの文化的価値を認め、それを街づくりの核にしようという運動が行われていましたが、その活動が実り、高架線がそのまま公園(遊歩道)として再生されることになったのです。「廃墟になれば周囲はさらに寂れる。逆に、人が集まる仕組みを作れば街には活気が戻る」-まさにその実践の成功例といえるでしょう。

ハイラインと同じような試みは日本にも存在します。横浜では、国鉄時代に開通した山下埠頭に通じる貨物線の高架を活用し、遊歩道が設けられています。ニューヨークに先立つこと7年、2002(H4)年のオープンなので、この分野では日本の方が一歩先を行っていたのですね!

【おすすめのリンク】
"The High Line" 公式サイト
 遊歩道の散策には欠かせない情報を満載。ハイラインに関するグッズ販売も。(英語)

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POLISH OCEAN LINES(1957年)

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ポーランド~アメリカ間に就航していた「バートリ」がニューヨークを追放された年、1951(S26)年にグディニャ・アメリカ・ラインズは他の船会社とともに、ポーリッシュ・オーシャン・ラインズとして新たなスタートを切ることになります。
それとともに「バートリ」も新天地へと向かったのですが、今度の活躍の場は大西洋とは正反対、なんとインド洋でした。

同社の1957年(S32)年1月の運航予定表では、「バートリ」はボンベイ(現・ムンバイ)~グディニャ間をケープタウン経由で1ヶ月かけて航海しています。元々はスエズ運河経由での運航でしたが、前年に勃発した第二次中東戦争(スエズ動乱)で運河が封鎖されてしまったことから、この頃は南アフリカ経由のまわり道をせざるを得なかったようです。

ところでなぜ、地理的にも離れ文化も異なるポーランドとインドを結ぶ客船航路があったのでしょうか? 実は筆者にもよくわかりません。ただ、憲法に社会主義を謳い、非同盟を掲げて冷戦時代でありながら東西両陣営とそれなりに付き合っていたインドの外交姿勢を考えれば、決して不可思議なこととは言えないでしょう。

「バートリ」の航海はまだ続きます。1957年には再び大西洋へとカムバック。しかしニューヨークではなく、グディニャとカナダのモントリオールを結ぶ航路への就航でした。
カナダのバランス感覚を重視する外交スタンスのおかげか、1969(S44)年に後進に道を譲って約35年の波乱に満ちたキャリアを終えるまで、今度は平穏無事に役目を務めています。

最後に余談を。ポーランドといえばバルト海に面した東欧の国というイメージがありますよね? しかし、今のような国境が確定したのは第二次大戦後のことなのです。
戦前は全体的に国土が今よりも東にずれており、バルト海との間には東プロイセン(現・ロシア連邦のカリーニングラード州)が横たわっているおかげで、グディニャ周辺がわずかに海に面しているだけでした(いわゆる「ポーランド回廊」)。グディニャの隣にあった自由都市ダンツィヒ(現・グダニスク)にドイツの影響が浸透していたことから、これに対抗する意味もあってポーランドはグディニャ港の整備に力を注いだという歴史があります。

【おすすめのリンク】
"POLISH OCEAN LINES" 公式サイト
 同社の歴史や過去に在籍した船舶についての紹介も豊富。

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GDYNIA-AMERICA LINES(1950年)

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よく視聴者投稿ビデオを紹介する番組で「このあと、信じられないことが起こる!!」なんていうナレーションがありますが、今回紹介するのはまさにそんな驚きのストーリー展開を背負った一品。

ポーランドの海運会社、グディニャ・アメリカ・ラインの1950(S25)年5月の運航予定表。巻頭には客船「バートリ」(BATORY)によるグディニャ~ニューヨーク間の大西洋航路の運航予定が掲載されています。コペンハーゲンとサウサンプトンを経由し、ひと月に一往復の割で運航されていたようです。
16世紀のポーランドの王様の名前にちなんで名づけられた「バートリ」は、姉妹船の「ピウスツキ」(こちらは20世紀に入ってからのポーランド共和国初代元首の名前)とともに第二次大戦直前に大西洋航路に就航した、同社を代表する客船でした。


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上に掲載した戦前の同社のパンフレットの表紙に掲載されている写真からも分かるように、「バートリ」は何の変哲もない普通の外航客船でした。しかし、1950年前後のニューヨークではかなり「浮いた」存在だったと推察されます。なぜならば、「共産圏からの客船」だったからです。
ポーランドは他の東欧諸国と同様に、元々から社会主義国だった訳ではなく、戦後の復興の過程で共産党政権が誕生し、ソ連主導の東側ブロックの一員となりました。当時は冷戦の最初期、アメリカでは「赤狩り」の嵐が吹き荒れていた時代です。東側諸国からの定期客船が好意的に見られたはずはありません(そんな時代に東西両陣営間に定期航路があったこと自体が信じられないですが)。

この予定表の前年、「バートリ」にとって決定的にダメージとなる事件が起きていました。なんと、東側大物スパイのアメリカからの脱出に使われたのです。以降、入港時には当局の厳重な監視が敷かれるようになったばかりか、ニューヨークの港湾労働者が「バートリ」に関わる作業を拒否。そうなれば運航を維持できないのは当たり前ですよね。
ということで、翌年の1951(S26)年に「バートリ」は伝統ある大西洋航路からの撤退を余儀なくされたのでした。

東西冷戦はこんなところにも影を落としていたのです。
このあと「バートリ」がどうなったのか? この続きは次回。

【おすすめの一冊】
"THE LAST ATLANTIC LINERS" (WILLIAM H.MILLER, Conway Maritime Press Ltd. 1985)
 戦後の大西洋航路の歴史について、就航船にまつわるストーリーがまとめられています。

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日航南米線(1958年)

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JALの南米線というと、1978(S53)年から昨年秋まで運航されていた東京~サンパウロ線を思い浮かべますが、これはそれよりもずっと前の話。

戦後、国際線が再開される機運が高まると、戦前から日本人の移住者が多かった南米への航空路線開設が話題となったのは自然の流れで、JAL以外の新会社までもが名乗りを挙げていました。

JALは日本のフラッグキャリアとして、1954(S29)年2月の太平洋線開設時より南米への乗り入れを計画。しかし、国内外の諸事情により定期運航の開始は叶わず、不定期便を何度か運航するにとどまりました。この不定期便は1954年10月にはじまり、1959(S34)年の第11回まで続いたといいます。

ここに紹介したのはそのオーラスひとつ前、第10回目の案内リーフレット。1958(S33)年4?月の発行です。


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当時の主力機・DC-6Bによる運航。6月8日夜に東京発で、ウェーク島・ホノルル・サンフランシスコ・ニューオリンズ・カラカス・ベレム・リオデジャネイロを経由し、サンパウロに到着するのは6月11日。リーフレットには『皆様を70数時間でサンパウロまで御案内いたします。』なんて書いてありますが、70数時間の航空旅行はチョッと現代では考えられないですね(世界一周線などを除くと当時世界最長)。

この路線、採算や通貨の不安定による為替差損といった問題があり、やはり長続きはしませんでした。
ちなみに当時、戦前からの伝統ある大阪商船の南米航路もまだ健在。「ぶらじる丸」「あるぜんちな丸」などが移住者や本国との往来者を運んでいました。これについてもまた日を改めて紹介したいと思います。

【おすすめの一冊】
「日本航空20年史 1951~1971」(日本航空 1974)
 JALの社史。戦後日本の国際線史をたどる上での基本的文献。

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ようこそ「時刻表歴史館」へ!

ようこそ「タイムテーブル・タイムトラベル~時刻表歴史館」へ!

このブログは、ネット上のバーチャルミュージアム「20世紀時刻表歴史館」http://www.tt-museum.jp)館長がお送りします。

「20世紀時刻表歴史館」は2001年の開設以来10年の節目を迎えましたが、より手軽に当館所蔵品をご紹介したいと思い、ブログという形で第2シーズンを開始することにしました。

ブログ版でも古今東西・陸海空の交通機関に関する時刻表を取り上げていくコンセプトは変わりませんが、「時刻表」を中心に、関連するその他の資料(パンフレットや絵はがきなど)も随時紹介したいと思います。

<資料の掲載にあたって>

(1)当ブログで紹介する資料は、当館が所蔵する各交通事業者などが発行した編集著作物です。したがって、原則として発行から50年が経過したものを掲載することとします。(2011年の場合、1960年までに発行されたものが対象となります)

(2)著作権法で保護される著作物とは言い難い資料(単に交通機関の発着時刻などの事実を表記したに過ぎず創作性がないもの)や、発行元がすでに消滅していて権利主張の主体が存在しないと考えられる場合、(書評で慣習的におこなわれているような)表紙だけの紹介については、例外的に発行から50年経過前でも掲載することがあります。

(3)当ブログに掲載された画像の無断転載はご遠慮下さい。なお、掲載画像にはほとんどの場合「tt-museum」という文字を挿入しています。

第3項は特に何か法律上の根拠がある訳ではないのですが、オリジナルの製作(創作)者や所蔵者の労力に対する配慮を抜きにして、単に画像だけがネット上でひとり歩きしていくことがある現状については、かねがね憂慮の念を抱いています。ネット上のマナーとしてご協力下さい。

それでは、時空旅行をお楽しみ下さい!
プロフィール

ttmuseum

Author:ttmuseum
「20世紀時刻表歴史館」館長。
サラリーマン稼業のかたわら、時刻表を中心とした交通・旅行史関連資料の収集・研究・執筆活動を行う。

<著作>
「集める! 私のコレクション自慢」(岩波アクティブ新書・共著)

「伝説のエアライン・ポスター・アート」(イカロス出版・共著)

「時刻表世界史」(社会評論社)

「時空旅行 外国エアラインのヴィンテージ時刻表で甦るジャンボ以前の国際線」(イカロス出版)

その他、「月刊エアライン」「日本のエアポート」「航空旅行」(いずれもイカロス出版)、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)などに航空史関係記事を執筆。

<資料提供>
・航空から見た戦後昭和史(原書房)
・昭和の鉄道と旅(AERAムック)
・日本鉄道旅行地図帳(新潮社)
・ヴィンテージ飛行機の世界(PHP)
の他、博物館の企画展や書籍・TVなど多数。

「時刻表世界史」で平成20年度・第34回交通図書賞「特別賞」を受賞。

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