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嘉手納飛行場に発着したノースウエスト機(1954年)

沖縄の玄関口といえば那覇空港ですが、アメリカ統治下の昭和20年代末の一時期、嘉手納飛行場(嘉手納基地)に民間旅客機が発着していたことがありました。
ここに紹介するノースウエスト航空の時刻表がその証拠。1954(S29)年7月のものです。



ノースウエスト航空(現在はデルタ航空と経営統合し、単独企業としては消滅)は戦後、海外から日本への定期乗り入れ一番乗りとして、1947(S22)年7月に東京線を開設。ハワイを経由するパンアメリカン航空とは異なり、シアトルからアンカレッジを経由して北米とアジアを最短距離で結ぶ北太平洋航路をテリトリーとしたのが特徴です。
また、東京から先は無制限の以遠権をフル活用して、韓国や台湾、フィリピンのほか共産化する前の中国大陸(上海)へも路線をのばしていました。



北米からアジア方面への国際線時刻表は、裏表紙に掲載されています。
表の左側、寄港地の欄を見ていくと、"OKINAWA Kadena Airport"という文字が書かれているのがお分かりになるでしょう。

なぜこんなことが起きたのかというと、飛行場の整備工事と関連がありました。

1945(S20)年、沖縄に上陸したアメリカ軍は、現在の那覇空港にあたる海軍小禄飛行場を占領。下に示す写真は、当時米兵むけに絵はがきとして販売されていた、終戦頃の同地の様子です。
アメリカ軍はここを整備して基地とする一方、民間機の発着も受け入れました。ちなみに、この那覇飛行場への初の民間機就航は、1947年9月のパンアメリカン航空とされています。



しかしそれから間もなく、欧米やアジアの航空会社の寄港地として那覇飛行場の需要が急増すると、民間向け専用施設の整備が課題となりました。
そこで米軍は民間向け施設の新設を含む抜本的な改修工事を実施することとし、1952(S27)年2月に工事に着手。以降、1954年11月に完成するまで、民間機は一時的に嘉手納飛行場へ発着することとなった次第です。

なお、那覇飛行場が工事中の間には、日本航空が初の国際線運航開始の一環として、東京~沖縄線を開設しています。1954年2月5日に開設されたこのJAL沖縄線も、当然のことながら嘉手納飛行場への発着でした。

ところで、上に紹介したノースウエスト航空の時刻表には、もうひとつ見どころがあります。それは、韓国の就航地がソウルと釜山の2都市であること。

「なんだ、その2都市に就航しているエアラインなんて、今となっては珍しくもなんともないではないか」とお思いかもしれませんが、まだ韓国への旅行が一般的ではない当時、韓国へは首都であるソウルにだけ就航というのが一般的でした。
ではなぜこの時のノースウエストは2都市なのか?

ノースウエストも元々はソウルだけに就航していました。ところが、1950(S25)年6月に朝鮮戦争が勃発すると、戦場となったソウルへの民間機の就航はとても無理。韓国は釜山を臨時の首都と定めましたが、このときノースウエストもソウルから釜山へと就航地を変えたのです。

1953(S28)年、休戦の年に韓国の首都機能はソウルに戻り、ノースウエストも再びソウルへ就航するようになりました。しかし、後始末の需要があったのでしょう、一時的にソウルと釜山両方に就航していたという訳です。
程なくして韓国の就航地は再びソウルへと一本化されました。


【おすすめの一冊】
「沖縄の空の玄関 那覇空港ターミナル25年の歩み」(那覇空港ターミナル 1980)
 ターミナルビルの運営会社の社史。那覇空港の歴史についても言及が多い。

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連合軍専用列車の後身「特殊列車」(1952年)

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もうひとつ、日本が占領時代から脱却する時期の資料を紹介します。戦後の一時期を駆け抜けた「特殊列車」の時刻表です。

終戦とともに占領軍が日本の鉄道の管理に強大な権限を行使したことはよく知られています。その結果、「連合軍専用列車」や「連合軍専用車両」が日本各地で運行されました。

「連合軍専用列車」は、1946(S21)年1月に東京~門司間で運行開始した"Allied Limited"にはじまり、同じく九州方面への"Dixie Limited"や札幌への"Yankee Limited"などが運行されました。
しかし、1952(S27)年の講和条約発効を契機に鉄道の管理は再び日本側に委ねられ、これらの専用列車は駐留軍関係者だけではなく日本人の利用にも開放されるようになります。こうして同年4月に誕生したのが「特殊列車」でした。

これは「特殊列車」が登場したときに国鉄(日本国有鉄道)が乗客に配布したチラシで、『日本初の国際列車だから日本人もそれにふさわしくキチンと振る舞いなさい』という旨の記述が、占領から脱して新しい時代へと踏み出す当時の日本の気概を感じさせます。

一方、外国人向けの英文には『席を離れるときは所持品に注意』との記述も。やはり時代が時代だけに、物騒な面もあったのでしょうか。もっとも、この資料からは直接は読み取れませんが、MPも警乗していたといいます。

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上は、チラシの裏面で、「特殊列車」の時刻表が記載されています。
「特殊列車」は、その前身である連合軍専用列車をほぼそのまま引き継ぎ、東京~佐世保間二往復と横浜~札幌間一往復の運行でした。
特筆すべき点としては、英連邦軍の便を考えて呉線を経由していたこと、横浜から東京駅を経由して直接東北本線に乗り入れていた(※)こと、青森~函館間は青函連絡船で寝台車が直通していたことなどが挙げられます。

ちなみに、「連合軍専用列車」の運行時刻は国鉄が発行した外国人向けの英文時刻表にだけ掲載されていましたが、「特殊列車」となってからは交通公社などが発行する日本人向け時刻表にも記載されるようになりました。

さて今日、「特殊列車」に関する実物資料を目にする機会はほとんどないと言っても良いでしょう。ここではそんな資料をさらに2つほど紹介します。

一つ目は食堂車のメニュー。1953(S28)年8月のものです。(左半分が表、右半分が裏)

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料理は当時の食堂車とあまり変わるところはありませんが、右中程に書かれた『酒類を扱っていない』(公務移動中の禁酒は軍隊の規律保持上の基本原則)ことと『駐留軍乗客むけの食事は軍兵站部が用意した食材で作られるので別献立』といった注記が、この列車の性格をよく表しています。

二つ目は1952(S27)年の「寝台使用証」。(同じく左半分が表、右半分が裏)

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いったい、どういった目的でこの書面が必要だったのかは分かりませんが、住所氏名を記載するところを見ると、警備上の理由があったのかもしれません。

「特殊列車」という“名無しの列車”は、1954(S29)年には他の急行列車並みの名前が付けられ、もはや普通の日本人向けの列車と変わらない姿となって歴史の一ページに姿を消したのでした。


(※)昭和40年代に東北新幹線工事の関係で東北本線方面から東京駅への乗り入れが出来なくなって以降、こうした直通運転があったことは長らく忘れられていましたが、東京駅と上野駅を連絡する工事が現在行われており、数年後には再び東海道本線と東北本線の直通が復活する予定です。

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還暦を迎えるJAL国内線(1951年)

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普段、私たちが当たり前のように利用している国内線。
今年はアニバーサリー・イヤーなのをご存知でしょうか?

敗戦をきっかけに占領軍により、航空に関わる様々な活動が禁止された日本ですが、朝鮮戦争など周辺情勢の変化を契機に再び活動が認められるようになります。
これに伴い、いまからちょうど60年前の1951(S26)年10月25日、東京~大阪~福岡間および東京~札幌間で戦後はじめて国内線の運航が開始されました(※)。これはその時(正確には11月1日からの正規ダイヤでの運航開始時)に日本航空が発行した時刻表です。

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当時のJALは日本の民間企業(特殊法人となったのは翌々年のこと)ながら、航空機の調達や運航はアメリカのノースウエスト航空に委託されていました。
時刻表からは「マーチン・スカイライナー」と「ダグラス・スカイマスター」で運航されていたことが分かりますが、前者はマーチン2-0-2(慣例的にマーチン202と表記される場合が多い)、後者はダグラスDC-4のことです。

当時のJAL機には惑星の名前が付けられていました。中でもマーチン2-0-2「もく星」号は、国内線就航一番機という栄誉を担った機体ながら、大島の三原山に墜落するという悲劇的な最期を遂げたことで知られています。

下に掲載したものは、当時ノースウエスト航空(左)とJAL(右)が発行したマーチン2-0-2のポストカードです。ノースウエストのものは、シアトルのレーニア山があたかも羽田空港から富士山を望んでいるようで、来日したマーチン2-0-2の姿が偲ばれる構図です。

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ところで、国内線が就航を開始した頃は、地上の施設も今とは比べものにならないくらい貧弱なものでした。

下は、当時JALが搭乗者に配布したB5判のチラシです。中には『飛行場の仮事務所にはトイレがありません』などという記述も。
当時の羽田空港は米軍の管理下にある“基地”でしたが、大規模なターミナルビルはまだ存在せず、現在の整備場地区にあった小さな戦前の建物などを使用して業務が行われていました。
抹線が引かれているところをみると、運航開始から間もなくして事務所が出来、こうした不便は解消したようです。

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一方、サービスについては機内食が出されるなど、むしろ現在よりも充実していた面も見受けられます。当時は運賃が非常に高額だったことから、航空機の利用は富裕層のステータスシンボルであり、それに応じて高い水準のサービスを提供する必要性があったのでしょう。

4都市を結んで始まったJALの国内線は、一時、名古屋や三沢、岩国へも寄港するようになりましたが、全日空(当時は前身の「日本ヘリコプター輸送」)との棲み分けから、1954(S29)年には再び当初の姿に戻ります。
そして、日本の経済的成長とともに便数の拡大や最新機材の導入、また、JALの民営化を契機に就航都市の拡大など、量的・質的な進化を遂げながら現在に至っています。


(※)国内線はもちろん、戦前にも存在しました。日本航空輸送株式会社などが、東京・大阪を中心に日本の主要都市に路線を広げていましたが、戦時色の高まりとともに廃止されてしまいました。


【おすすめの一冊】
「羽田空港」日本のエアポート01 (イカロス出版 2010)
 館長の拙稿『ターミナルビル変遷史』が掲載されています。

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tag : 日本航空の歴史 羽田空港の歴史 昭和史

ローデシア鉄道(1950年)

世界史の中には往々にして、キワモノ国家とでもいうべき国が存在します。つまりは「お騒がせ国家」。自国内あるいは周辺国、時には世界を相手にトラブルを抱えていて、しばしばニュースに登場するといった感じです。

今日、紹介する時刻表は、かつてアフリカに存在したそんな国家、ローデシア(Rhodesia)のもの。
アフリカ諸国が次々と独立する中で、「植民地主義の象徴である白人政権」「古くからの住民である黒人」そして「宗主国イギリス」いう三つ巴の対立が長らく続き、経済制裁を課されるなど、約半世紀近く前に国際社会の耳目を集めていた国です。



ローデシアは元々、イギリスのアフリカ植民政策の過程で生まれた国家・地域でした。
名称がまったく変わってしまったので、いまや「あの人は今」みたいな存在になってしまった感がありますが、大別すれば現在のザンビアにあたる北ローデシアと、同じくジンバブエにあたる南ローデシアから構成されていました。前者はイギリス保護領、後者は自治政府という位置づけです。

ここに紹介した時刻表は1950(S25)年12月のものですが、南北の政体は異なるものの、鉄道は一括してローデシア鉄道によって運営されていました(実態は1947年に南ローデシア政府によって国有化された国有鉄道)。

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のちにローデシアが国際的に注目を集めた一因としては、ちょうど南北の境に世界トップクラスの規模を誇る「ヴィクトリアの滝」があり、そんな一大観光地が問題の舞台となったということとも無縁ではないでしょう。
ローデシア鉄道が発行した絵葉書からも分かるように、滝のすぐ隣には南北ローデシアを結ぶ道路と鉄道の併用橋が架かっており、まだ航空便がなかった頃から比較的訪問しやすい環境が整っていました。

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上の時刻表の端に書かれている、ヴィクトリア・フォールズ駅(VICTRIA FALLS)とリヴィングストン駅(LIVINGSTONE)の間が南北の境界で、上述の併用橋が架かっている場所です。

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当時の鉄道連絡は南北ローデシア内にとどまらず、なんと南アフリカのケープタウンから南北ローデシアを経由して、ベルギー領コンゴのエリザベートヴィル(Elisabethville-現在のルブンバシ)にまで至っていたようです。
火曜の午後9時にケープタウンを出ると、エリザベートヴィルに着くのは日曜の午前9時。これはまさに、いわゆる「ケープ・カイロルート」の一部にあたります(ローデシアという名称自体、このケープ・カイロルートを推進したセシル・ローズにちなむもの)。

時刻表からは古き良き時代のスケールの大きな旅の夢すら感じ取れるローデシアの鉄道ですが、この頃からこの国は迷走を始めます。以下に要点だけ列挙しましょう。

 1953(S28)年 南北ローデシアなどが「ローデシア・ニサヤランド連邦」を結成。
 1963(S38)年 アパルトヘイト政策が原因で連邦解消。翌年に北ローデシアがザンビアとして独立。
 1965(S40)年 イギリスの意向に沿わず、南ローデシアの白人政権が一方的に独立を宣言。
         (以降、白人と黒人の内戦激化。白人政権の強行姿勢に国際的批判が高まる)
 1980(S55)年 前年、白人と黒人の間で協定が成立。ジンバブエとして独立。

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こうした情勢は、朝鮮半島のように南北の鉄道連絡の断絶を生みました。
上左に掲げた1968(S43)年1月のローデシア鉄道時刻表では、リヴィングストンから北の路線は姿を消しており、かつての南ローデシア域内と、同じく白人優位政策を取っていることから経済制裁中は頼みの綱だった南アフリカとの連絡のみの掲載となっています。
ローデシア経由でのザンビアの銅鉱石の積み出しは不可能となり、ザンビアは中国の支援を得てタンザニア方面への鉄道建設に乗り出します。(「タンザン鉄道」を学校で習いませんでしたか?)

参考までに上右に掲げた、白人スチュワーデスの姿が印象的な1971(S46)年のローデシア航空の時刻表も、当時のこの国の実態を象徴するものと言えるでしょう。

最後に、もう一度1950年の時刻表の表紙に目を移していただきましょう。
変わった形の蒸気機関車が列車を牽引しています。これはガーラット(ガラット)型と呼ばれるタイプのもので、石炭や水の搭載量が多い上に牽引力が大きく、変化に富む辺境の荒野の長距離運行にはもってこいの機種でした。
ローデシアや南アフリカはこのタイプの天国ともいうべき場所で、先に述べた政情不安はあったものの、旧イギリスの植民地ということで訪問への敷居が低かったのか、欧米から熱心な鉄道ファンが多数詰め掛けたこともあったそうです。

ファンの情熱は国際問題をも超えるということでしょうか・・・

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昔の空の旅-ウェーク島(ウェーキ島)案内

航空機の航続性能が現在のように大陸間をノンストップで飛べるだけの距離に満たなかった時代、中部太平洋を横断するには途中で着陸して給油しなければなりませんでした。
特に、ジェット機が登場する前の1950年代までは2カ所での給油が必要であり、そんな寄港地としてハワイのホノルルと並んで知られていたのがここに紹介するウェーク島(Wake island)。フィリピンとハワイの間に浮かぶアメリカ領の孤島です。



ところで、給油のための2時間程度の寄港とはいえ、何もない南海の島へ足跡を印すという体験は、ただでさえ海外旅行が珍しかった時代にさらに輪をかけて得難いものであったせいか、往年の航空会社はウェーク島に関する紹介リーフレットを発行していました。

上は、日本航空が1954(S29)年の太平洋線開設からしばらく経った頃、座席にセットした機内案内資料類(フライト・パケット)に同封して配布していた「ウェーキ島御案内」。島全体やターミナルビルの概略図などのほか、島のプロフィールが掲載されています。
表紙の写真は当時の国際線主力機であるダグラスDC-6Bです。

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「空飛ぶホテル」とも言われたボーイング・ストラトクルーザーの機首が表紙を飾るのは、パンアメリカン航空のもの。パンナムはウェーク島開発の立役者といっても良いほど、この島には縁が深いエアラインでした。
1930年代、パンナムは太平洋横断の飛行艇空路を開設するにあたり、ウェーク島に乗客用のホテルを建設。当時は航法援助施設が未整備だったため夜間の洋上飛行ができず、夜はどこかに着陸して宿泊する必要があったからです。

しかし、第二次大戦中にウェーク島は日米の激戦の舞台となり、これらの施設は破壊されてしまいます。大戦中の一時期は日本軍が占領していましたが、最終的にはアメリカが奪還。
戦後は軍やFAA(連邦航空局)によって、飛行艇ではなく陸上機のための施設が整備され、JALやパンナムそして北米と極東を往来する米軍機などにとって欠かせない寄港地となりました。

戦勝国としての意識が強いのか、パンナムのリーフレットは島の施設案内よりも、第二次大戦を中心とした歴史についての記述が主体です。

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最後のひとつは、1950年代に活躍したアメリカの不定期エアラインであるトランスオーシャン航空(現存せず。沖縄を中心に飛んでいる日本トランスオーシャン航空とも無関係)が発行したもの。

表紙の写真には、なにやら海岸にそそり立つ岩のような物体が写っていますが、これは戦時中の1943(S18)年3月28日に米軍の攻撃で掴座し、その後全損した日本郵船の客船「諏訪丸」(戦前にヨーロッパ航路で活躍)の残骸。沈没位置は、JALのリーフレットに“スワ丸”として示されています。

ちなみにウェーク島には、これらのリーフレットが発行された頃に日本側が建立した戦没者慰霊碑(「太平洋の波 永遠に静かなれ」と刻まれている)がありますが、その建立者にはJALのほかトランスオーシャン航空も名を連ねています。

こうして、太平洋の往来に欠かせなかったウェーク島ですが、1950年代末期に航続距離が長いダグラスDC-7Cが就航すると、太平洋横断はホノルルのみ寄港のワンストップの時代に突入します。
それでもジェット時代の初期までは、偏西風に逆らって飛ぶ西行き便で、冬期に燃料消費が著しいとウェーク島に臨時に着陸することもある旨が時刻表に記載されていましたが、やがて技術の進歩でそれも解消され、民間旅客機のウェーク島寄港は完全に歴史のひとコマとなりました。

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ヴィシー政権下のAIR FRANCE(1941年)

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エールフランスといえば有名画家によるポスター広告など、さすがは文化の国・フランスのフラッグキャリアだけあって洗練された航空会社という評価が古くからありますが、ここに紹介する同社の時刻表はそんなイメージとは正反対をゆく資料です。

1939(S14)年9月に始まった第二次大戦で、フランスはナチス・ドイツによる侵攻の結果、開戦から一年も経たないうちに国土の北半分はナチスに占領され、南半分には温泉保養地であるヴィシー(Vichy)を首都とするナチス寄りの政権が樹立されました。
この時刻表はそんな時代の1941(S16)年9月に発行されたものです。

かつては極東のインドシナや南米にまで翼を広げていた同社ですが、そんな面影はまったくうかがえず、モノトーンの単調で粗末な時刻表からは、ヴィシー以南の本国とアフリカを結ぶ路線だけが運航されていたことがわかります。それでも、戦時中に運航が続いていたこと自体が奇跡かもしれません。

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就航地には、あの名画の舞台・モロッコのカサブランカも含まれていました(時代的にもこの時刻表と映画はほぼ同じ)。
このことからも分かるように、北アフリカや西アフリカといった戦前からのフランス植民地は、そのままヴィシー政権に引き継がれています。
これは極東のインドシナ(日本でいう仏印)なども同様でした。その結果、ドイツとともに枢軸側だった日本は、同じく枢軸寄りのヴィシー政権支配下の植民地である仏印へ進駐することが可能となった訳です。

しかし、ナチスに媚びるヴィシー政権がずっと支持されたはずもなく、これら植民地の多くは次々と離反。1942(S17)年に北アフリカが連合軍に侵攻されると、ナチス・ドイツはフランス全土を占領してしまいます。こうして、政権は残ったものの固有の国土を失った国家は、1944年(S19)の連合軍の上陸作戦によるフランス解放によって幕を閉じました。

エールフランスはというと、1942年にフランス全土がナチス・ドイツの支配下に入ったのを契機にフランスのエアラインとしての存在意義を失い、ルフトハンザがその後を継いでいます。
しかし、これによってエールフランスのDNAが途絶えたわけではなく、いわゆる亡命政権である「自由フランス」にもかつての同社の関係者によってエアラインが発足しており、戦後はこちらの流れによって再びエールフランスは甦ることとなりました。

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プロフィール

ttmuseum

Author:ttmuseum
「20世紀時刻表歴史館」館長。
サラリーマン稼業のかたわら、時刻表を中心とした交通・旅行史関連資料の収集・研究・執筆活動を行う。

<著作>
「集める! 私のコレクション自慢」
(岩波アクティブ新書・共著)

「伝説のエアライン・ポスター・アート」
(イカロス出版・共著)

「時刻表世界史」(社会評論社)

その他、「月刊エアライン」「日本のエアポート」(いずれもイカロス出版)、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)などに航空史関係記事を執筆。

<資料提供>
「昭和の鉄道と旅」(AERAムック)
「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)
「ヴィンテージ飛行機の世界」(PHP)
の他、博物館の企画展や書籍・TVなど多数。

「時刻表世界史」で平成20年度・第34回交通図書賞「特別賞」を受賞。

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