サスペンスの舞台となったインペリアル航空(1935年)

イギリスのミステリー作家であるアガサ・クリスティーは、『オリエント急行の殺人』など旅を背景とした作品で知られていますが、その中に飛行機が舞台の作品があることをご存じの方も多いでしょう。
『雲をつかむ死』(原題"Death in the Clouds")。1935(S10)年に発表されたこの作品は、パリからロンドンに向かう“ユニヴァーサル航空”の“プロメテウス号”という飛行機の中で起きた変死事件で幕を開けます。
今日紹介するのは、おそらく作者が下敷きにしたであろう、まさにその当時のヨーロッパ空路を翔んでいた航空会社の時刻表です。
そのエアラインの名はインペリアル航空。
同社は大英帝国のフラッグ・キャリアとして、イギリス本国から南アフリカやオーストラリアといった英連邦諸国への長距離国際線の運航で知られていましたが、この冊子には欧州内路線のみが掲載されています。

『雲をつかむ死』では、昼にパリのル・ブルージェ飛行場を離陸して、ロンドンのクロイドン飛行場へ向かう便の機内で事件が起きるのですが、時刻表を開くとありました!
12時30分パリ発ロンドン行き-"Silver Wing Service"という特別な名前が付けられたこのフライトこそが、オリエント急行と同様に、惨劇の不可解さを際立てるにふさわしい場というインスピレーションをアガサが感じた、当時の紳士淑女の優雅な旅のスタイルを象徴する航空便だったに違いありません。
(本文中では、『クロイドンへの昼間便』 『12時の便』と表現されています。)
でも、同じ位の時間に発着する他の会社の便は無かったのか? なぜ、インペリアル航空のその便だと分かるのか? と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。たしかに、同じ路線をエールフランスの便も飛んでいました。しかし、もうひとつ、「機種」という手がかりがあるのです。
小説では“プロメテウス号”となっていますが、じつはそんな名前の機種・機体は存在しません。
それでも、時刻表には "Heracles or Scylla class of air liner" での運航と記載されているのがお分かりかと思います。
“ヘラクレス” - プロメテウスと同じくギリシャ神話に由来する名前です。そんなところにも、小説の下敷きとなった機種の姿が見え隠れします。

では“ヘラクレス”タイプがどんな機体だったのでしょうか? インペリアル航空が当時発行した、機種別の透視図が掲載されたパンフレットをひもといてみましょう。
上はそのパンフレットの表紙で、下が“ヘラクレス”タイプの図。
1931(S6)年に登場した同機は、正式には「ハンドレページ H.P.42」といいます。これには2種類あり、38人乗りのヨーロッパ路線むけが“ヘラクレス”で、機内の一部が異なる24人乗りが“ハンニバル”タイプという、長距離国際線用でした。
『雲をつかむ死』には、プロメテウス号の機内図(但し、事件が起きる機内後半部分のみ)が巻頭に載っています。後方から、荷物室・乗降口・座席4列・ギャレー(配膳室)・洗面所という配置は、まさに“ヘラクレス”の機内図と一致するのです。
なお、このパンフレットには"Scylla"タイプの図も掲載されているのですが、プロメテウス号の図とは一致しません。

ところで、ハヤカワ文庫『雲をつかむ死』の巻末には、作家の紀田順一郎氏による解説が付いているのですが、そこで氏は機種の推定について以下のように書いています。
『私は航空史の専門家ではないが、諸資料に照らしてみると、1935年時点では21人乗りの“超大型”旅客機は非常にめずらしいものだったといえそうだ。(中略) さいわいこの作品は緻密な時代考証で人気のあるTVドラマにより映像化されているが、そこに登場するのは米ダグラス社のDC-3機と同じ系統に属するもので、じつはこれ、クリスティーが本書を刊行した年にアメリカン航空が大陸間に就航させた機種にほかならない。この飛行機から、はじめて21人乗りが実現したのであった。 (中略) そのようなわけで一応DC-3にきまりということになるが、困ったことにこの機種は本書刊行の年の暮、1935年の12月17日になってから米英大陸間に就航したものである(後略)』
乗客数が当時としては極めて多いことに注目し、また一方で、時期的にみてDC-3という推定に引っかかるものを感じているのにも関わらず、当時のイギリス航空事情を掘り下げるに至らなかった点は惜しいところです。
ハンドレページ H.P.42はインペリアル航空でのみ使われた後、第二次大戦前後にすべてが失われ、現存する機体はありません。どんなに考証がしっかりしたTVドラマでも、そこまでの再現は難しかったでしょう。
【おすすめの一冊】
"BRITISH AIRWAYS AN AIRLINE AND ITS AIRCRAFT VOLUME 1:1919-1939 THE IMPERIAL YEARS"
(R.E.G. Davies, Paladwr Press 2005)
民間航空史の大家による、使用機を軸にしてインペリアル航空の歴史を解説した図説。
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大戦突入直前のオランダ領東インド鉄道(1941年)

現在のインドネシアが、かつてオランダ領だったことはよく知られています(オランダ領東インド。日本では「蘭印」とも呼ばれた)。
本日紹介するのは、そのオランダ領東インドの鉄道時刻表。1941(S16)年11月から翌年にかけて有効のものです。
ということは、
まさに太平洋戦争の開戦直前に発行されたもの
ということになります。
現地の観光局は、ジャワ島などを訪れる観光客向けにダイジェスト版の時刻表を1910年代には早くも発行していましたが、ここに紹介した時刻表は全線全駅を掲載したフルサイズ。ポケット版ながら、300ページにも及ぶ堂々たる体裁です。
それもそのはず。オランダ本国は国土は小さいですが鉄道網がよく発達していることで知られています。その技術と精神を受け継ぎ、オランダ領東インドの鉄道は東南アジアではいち早く、1867年(慶応3年)に開業し、戦前の時点ですでに総延長が7000キロにも達していたといいます。
時刻表冒頭に挿入されている、新型の客車やダイナミックに橋や線路を撮影したグラビアからも、そうした発展の片鱗が窺えます。

時刻表は、バタビア(現:ジャカルタ)~ジョグジャカルタ間の急行列車から始まり、スラバヤ島・パレンバンとジャワ島との連絡時刻が続きます。
その次からが線区別の時刻表になるのですが、上の画像はバンドン発スラバヤ方面の時刻表。黒い枠は急行列車の印です。
脚注に記載されているように、「B」はビュッフェの連結を示します。ほかに食堂車を示す「R」などもあり、設備面も充実していたことが偲ばれます。しかし一方で等級を見ると1等から4等まであったことが分かり、1等の豪華で快適な旅と4等との間にはかなりの差があったことでしょう。
ちなみに、当時のオランダ本国は前年5月にナチス・ドイツに占領され、政府はイギリスに亡命している状態でした。国土はナチス・ドイツの侵攻で破壊され、鉄道も甚大な被害を受けています。
一方で、その亡命政府が管轄するこの東南アジアの植民地には、時刻表からも窺えるように何事もなかったかのような南国の暮らしが息づいていました。それは、あたかも栄華をきわめた本国の形見のような存在だったといえるでしょう。
そんなオランダ領東インドも、太平洋戦争の開戦翌年、1942(S17)年3月には日本軍に占領され(この侵攻は、パレンバンへの落下傘降下作戦などでよく知られていますね)、当然のことながら鉄道も日本の管理下に置かれることとなります。このときに線路の幅は縮小され、ヨーロッパの標準軌から狭軌(1067ミリ軌間)という日本仕様へと変更されています。
ところが、この変更が幸いしたのか、現在では国際協力の一環として日本の中古車両がインドネシアに譲渡され、地元の足として活躍しています。彼の地に行くと、ひと昔前の都営三田線や東急の車両が走っていて、20世紀末期の日本に戻ったかのような錯覚を感じることでしょう。
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tag : アジアの鉄道
東西で本家を争ったルフトハンザ(1956年)

鶴のマークでおなじみのルフトハンザは、航空マニアでなくとも知っている超有名なエアラインでしょう。
これは見てのとおり、ルフトハンザが発行した時刻表です。
ところで、この時刻表が発行された1956(S31)年当時、ドイツは東西に分裂していて、自由主義陣営と共産主義陣営の対立の最前線でした。
では東西の航空会社がどうなっていたのかというと、これまた東西それぞれ別々の航空会社が存在していたのです。
その名前は東西どちらも「ルフトハンザ」。
ここに紹介した時刻表は、「東ドイツの」ルフトハンザのもの。
東ドイツというと、日本では秘密警察やベルリンの壁といった重くて暗い印象ばかりがつきまといますが、そんなイメージとはまったく正反対の表紙はどのように解釈すれば良いのでしょうか?

前年に設立されたばかりということで路線網はまだ限られていますが、共産圏の航空会社だけに、そのすべてがベルリンからワルシャワ・プラハ・ブダペスト・ソフィア・ブカレストといった東欧への路線だったことが分かります。
(ウィーンやチューリヒといった都市名も見えますが、乗り継ぎ便による目的地です)
ただ、共産圏である東欧は必ずしも西側諸国と接触が無かったという訳ではありません。
東欧の航空会社はパリやロンドンに乗り入れていましたし、逆に西側諸国のエアラインも東欧諸都市に乗り入れていました。
そこで困った問題が起きます。“ルフトハンザが東西二つ存在するのは紛らわしい”という指摘です。
東よりもわずかに先に設立された西ドイツのルフトハンザは、『我こそが戦前のルフトハンザを引き継ぐ元祖・ルフトハンザである』と主張。結局、この対立は裁定に持ち込まれ、東のルフトハンザには制裁金が科されることに。
こうなると、東もさすがにルフトハンザという商標を引っ込めざるを得なくなってしまい、このために取られた苦肉の策が、1958(S33)年に設立された別のエアラインであるインターフルーク(INTERFLUG)への統合でした。
こうして1963(S38)年9月、東ドイツのルフトハンザはインターフルークにとって代わられる形で消滅し、数年に渡るすったもんだにようやく決着が付いたのでした。
もっとも、1960年頃の東のルフトハンザの時刻表ではルフトハンザ便(DH)とインターフルーク便(IF)が一緒に載っていたことからも分かるように、実態としては両社は競合関係というよりも渾然一体となった運営がすでに行われていたようです。

最後に掲げたのは、ベルリン・シェーネフェルト空港に佇むありし日のルフトハンザ機の絵葉書(ソ連製のイリューシンIl-14型機)。
東西ドイツを取り巻く航空事情は上記の逸話に限らずいろいろネタが尽きないので、またいつか触れてみたいと思います。
【おすすめの一冊】
「ニセドイツ ≒東ドイツ製工業品」伸井太一著(社会評論社 2009)
モノやサービスから東ドイツの社会・文化を回顧する好著。館長もインターフルーク関連の資料を提供。
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中央アジア・宇宙への最寄り駅(1960年)

今日は、モスクワからタシケントへと向かう鉄道の途中にある小さな駅の話を。
上の画像は1960(S35)年にソ連で発行された鉄道地図帳の中の1ページです。
アラル海(今では大部分が干上がってしまって環境破壊の象徴になっていますね・・・)から東へ200キロほど進んだ赤丸で囲んだ場所、南にシルダリヤ川が流れる中央アジアの広野に建つその駅の名は「チューラタム」(チュラタムとも)。
「スターリンとともに」と正面に書かれた蒸気機関車が驀進してくる表紙が印象的な、1947(S22)年のソ連国鉄時刻表を見ると、上述の立地からもわかるように、1日1往復の各駅停車とわずかの急行列車しか停まらない田舎の駅に過ぎません。
もっとも、上りは急行もすべて通過していることを考えると、停車する下り急行列車も行き違いなど何か運転上のやむを得ない理由があっての停車だったのかもしれません。

(上)1947年ソ連国鉄時刻表の表紙。 (下)チューラタム駅の時刻(赤線部分。上下で1ページの掲載)

ところが、それから13年後の1960(S35)年の時刻表を見ると、あら不思議。列車本数は倍に増えていますが、それにもかかわらずすべての列車がこの駅に停車するようになっていました。
ほかに全列車が停車するような駅は、着時刻と発時刻がセットで書かれているような大きな駅ばかりであることから考えると、これは破格の扱いだと言えます。

(上)1960年ソ連国鉄時刻表の表紙。 (下)チューラタム駅の時刻(赤線部分。片道で1ページの掲載)

それもそのはず。13年の間に、この駅はある重要な施設の最寄り駅となっていたのでした。
その施設とは、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射基地。
1955(S30)年に建設されたチューラタム基地はソ連核戦略の最前線にして最高機密の場所でした。冷戦時代、ここで核弾頭を搭載したミサイルが西側陣営に狙いを定めていたわけです。
この駅からその北に位置する基地までは長大な引き込み線も設けられ、まだ航空輸送が発展途上だった当時、広野にポツンと建つ小さな駅はミサイルに関連した物資の輸送や人員の往来の拠点となったのでした。
時刻表の変化の裏にはそんな事情があったのです。
しかしこのチューラタム基地、一般には違った名前で呼ばれています。「バイコヌール宇宙基地」-そういうとピンと来る方も多いでしょう。
ミサイルというのは言い換えれば人工衛星を打ち上げるロケットのこと。今からちょうど半世紀前の1961(S36)年4月12日、ガガーリンはここから人類初の宇宙飛行に旅立ちました。
ここがバイコヌールと呼ばれるようになったのには、冷戦時代ならではのいきさつがあります。
ガガーリンの飛行の際、チューラタムにミサイル基地が存在することはアメリカの軍事筋にもバレていましたが、ソ連当局は機密保持の観点から一般の人々を欺瞞するために、ここから数百キロも離れたまったく別の街・バイコヌールをロケットの発射地点として発表したのです。
以来、チューラタムのミサイル基地は宇宙開発の舞台ではバイコヌール(Baikonur)として世に通用し、最終的にはそれがこの地域の名前としても公式に定められています。もはや冷戦が完全に終結した今日では、核戦略を担うという役割は消えましたが。
ちなみに、ここはロシアがカザフスタンから賃借しているという面白い土地です。
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昔の空の旅-おマヌケ印刷物3連発!
国際線を飛ばすような航空会社は、その国を代表する立場で広告宣伝には力を入れるものです。
自国を魅力的に見せようとするのは当然ですが、その航空会社が飛んでいく就航先に対しても、やはりそうした思いは同じでしょう。
そんな訳で1950年代にエールフランスが制作した極東地域の宣伝リーフレットがこれ。
エールフランスというと、サヴィニャックなど名だたるイラストレーターが筆を振るった、オシャレでアートなポスターが知られていますが、この表紙絵も署名が入っているところをみると、それなりの作家による作品と思われます。
極東の風物が盛りだくさんで賑やかな表紙ですが・・・・

右上の「パチンコ」っていうのはなんでしょう?
漢字が書かれたTシャツを意味は分からず雰囲気だけで着ている外国人のように、目についた日本語をたまたま描いちゃったのでしょうが、日本(東洋の文字)のイメージが「パチンコ」というのは、エールフランスらしからぬ失態ですね。
しかしこの表紙、作者の意図か勘違いかは抜きにして、日本風の赤い太鼓橋の真ん中で出会っている男女がベトナム風だったり、インドの象の背中で力士が相撲を取っていたり、富士山を背に東南アジアのジャンクが浮かんでいたりと、とにかく強烈にカオスです。
ヨーロッパでアジアが「極東」として一括りにエキゾチシズムだけでしか見られていなかった時代の名残に思えます。
---------------------------------------------
こんどは緊急事態に関して。
飛行機に乗ると前の座席の背に「安全のしおり」が入っていますよね。たいていはラミネートされたカードで、非常口の位置や開け方、救命胴衣の着用方が載っています。
しかし、「安全のしおり」は昔からそうした形態だったわけではありません。
昔の「安全のしおり」は、各航空会社が独自に制作した紙のパンフレットでした。それも単独で作られているものとは限らず、ルートマップが載った冊子や機内の案内に一緒に記載されている場合もありました。
今日のような形態になったのは1970年代頃で、内容も今では航空機メーカーが機体のタイプごとに標準版を定め、各航空会社が一部だけ変えて使うケースも少なくありません。
仮に、大海原の真ん中で飛行機に不具合が起きたとき、エンジンの信頼性が向上した現在ではボーイング777などの双発機でもETOPSといって、180分など一定時間以内に最寄りの空港に着陸できるような場所を飛ぶことが元々考慮されています。
しかし、そのような基準が無かったプロペラ機時代は「悪天候の中、山にぶつかる」ことと並んで、「エンジン故障で海の真ん中に不時着水する」ことが航空旅客の不安事だったのです。
1960年代、航空会社は乗客のそうした不安を少しでも和らげようと「安全のしおり」づくりにも努力していました。
その成果が下に示す2点の資料です。
まずはハワイアン航空発行のもの。

そりゃ、水鳥は確実に着水できますわ・・・
不時着水はそれくらい心配いらないよ、と言いたいようです。
左のページでは自社がいかに安全の記録を打ち立ててきたかが滔々と説明されています。
次はアリタリア航空のもの

緊急事態に人魚をナンパしてどうする!!
ここまでメルヘンで攻めるイタリア人のセンスには苦笑するしかないですね。
しかし、肝心の救命胴衣の着用方がいまひとつ抽象的過ぎませんか?
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自国を魅力的に見せようとするのは当然ですが、その航空会社が飛んでいく就航先に対しても、やはりそうした思いは同じでしょう。
そんな訳で1950年代にエールフランスが制作した極東地域の宣伝リーフレットがこれ。
エールフランスというと、サヴィニャックなど名だたるイラストレーターが筆を振るった、オシャレでアートなポスターが知られていますが、この表紙絵も署名が入っているところをみると、それなりの作家による作品と思われます。
極東の風物が盛りだくさんで賑やかな表紙ですが・・・・

右上の「パチンコ」っていうのはなんでしょう?
漢字が書かれたTシャツを意味は分からず雰囲気だけで着ている外国人のように、目についた日本語をたまたま描いちゃったのでしょうが、日本(東洋の文字)のイメージが「パチンコ」というのは、エールフランスらしからぬ失態ですね。
しかしこの表紙、作者の意図か勘違いかは抜きにして、日本風の赤い太鼓橋の真ん中で出会っている男女がベトナム風だったり、インドの象の背中で力士が相撲を取っていたり、富士山を背に東南アジアのジャンクが浮かんでいたりと、とにかく強烈にカオスです。
ヨーロッパでアジアが「極東」として一括りにエキゾチシズムだけでしか見られていなかった時代の名残に思えます。
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こんどは緊急事態に関して。
飛行機に乗ると前の座席の背に「安全のしおり」が入っていますよね。たいていはラミネートされたカードで、非常口の位置や開け方、救命胴衣の着用方が載っています。
しかし、「安全のしおり」は昔からそうした形態だったわけではありません。
昔の「安全のしおり」は、各航空会社が独自に制作した紙のパンフレットでした。それも単独で作られているものとは限らず、ルートマップが載った冊子や機内の案内に一緒に記載されている場合もありました。
今日のような形態になったのは1970年代頃で、内容も今では航空機メーカーが機体のタイプごとに標準版を定め、各航空会社が一部だけ変えて使うケースも少なくありません。
仮に、大海原の真ん中で飛行機に不具合が起きたとき、エンジンの信頼性が向上した現在ではボーイング777などの双発機でもETOPSといって、180分など一定時間以内に最寄りの空港に着陸できるような場所を飛ぶことが元々考慮されています。
しかし、そのような基準が無かったプロペラ機時代は「悪天候の中、山にぶつかる」ことと並んで、「エンジン故障で海の真ん中に不時着水する」ことが航空旅客の不安事だったのです。
1960年代、航空会社は乗客のそうした不安を少しでも和らげようと「安全のしおり」づくりにも努力していました。
その成果が下に示す2点の資料です。
まずはハワイアン航空発行のもの。

そりゃ、水鳥は確実に着水できますわ・・・
不時着水はそれくらい心配いらないよ、と言いたいようです。
左のページでは自社がいかに安全の記録を打ち立ててきたかが滔々と説明されています。
次はアリタリア航空のもの

緊急事態に人魚をナンパしてどうする!!
ここまでメルヘンで攻めるイタリア人のセンスには苦笑するしかないですね。
しかし、肝心の救命胴衣の着用方がいまひとつ抽象的過ぎませんか?
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常磐炭田全盛時代の常磐交通(1955年)

福島県いわき市を中心として路線バスや高速バスを運行する会社「新常磐交通」の前身、「常磐交通」のバス時刻表です。
かつてこの地域は本州を代表する炭坑である常磐炭田のお膝元として大いに栄えました。
ここに紹介した時刻表が発行された1955(S30)年は、戦後斜陽化しつつあった石炭産業が、朝鮮戦争による特需で一時的に勢いを盛り返した時期にあたるのですが、時刻表の表紙にも炭坑住宅とおぼしき四角い建物群に煙突が描かれ、当時の活気が伺えます。

現在のいわき駅はかつて平と呼ばれていましたが、この平駅を中心に北は原町から南は勿来まで、広範囲に路線が広がっていました。
もちろん、長い年月の間に路線はいろいろと変わっているようです。
どこかどう変わったのかということについては、地元の方のほうが詳しいと思いますが、中には浪江など現在報道される機会の多い地名も見られ、こうした資料を通じてそこに人々の生活が息づいていたことに思いを巡らせると、ある種の感慨を覚えずにはおれません。
話を元に戻し、炭坑に関する路線はないかと探すと、湯本~鹿島坑線というのが見えます。もちろん、炭坑が閉山した今日では走っていない路線です。
湯本といえばあの温泉リゾート施設「スパリゾート ハワイアンズ」の最寄り駅。炭坑の斜陽化から生まれた一大観光施設という同施設のなりたちについてはもはや全国的に有名になりましたが、そんなエピソードがリアリティをもって感じられるのではないでしょうか?
ハワイアンズが10月から営業再開-そんなニュースを聞いて、この資料を紹介したくなりました。
(画像をクリックすると拡大します)
第二次世界大戦勃発時の大西洋航路(1939年)

1939(S14)年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦の火蓋が開かれました。
すでにヨーロッパには戦争の暗雲が立ちこめていましたが、太平洋戦争開戦直前の日米間とは異なり、国際間の交通はそれまでと変わらず維持されてきたため、各交通機関は開戦によって大きな混乱に陥ります。
特にそれが顕著だったのが、当時の国際交通の大動脈である、大西洋を横断してヨーロッパとアメリカをつなぐ客船航路でした。
ここに紹介した資料は、アメリカン・エキスプレス社が定期的に発行していた、北米に発着する航路の運航予定表。開戦を挟む、8月から11月まで有効のものです。
ところで、アメリカン・エキスプレスというと、今日の私たちにとってはクレジットカードのブランドというイメージが強いですが、元々は運送業から出発してトラベラーズチェックの発行で有名になり、むしろ旅行業界が本来の事業テリトリーなのでした。

これが問題の開戦前後の大西洋航路(なお、北米~地中海方面の航路は別ページなのでここには掲載されていません)。
開戦によってドイツ潜水艦が跳梁する大西洋は商船にとって危険地帯となり、また、軍事輸送用に客船がたちまち徴用された関係で、多くの航路が運航中止となりました。
この資料が発行されたのは戦前のことですから、もちろん9月以降のスケジュールは「戦争がなければこういう予定だった」という情報に過ぎません。言い換えれば、「幻のスケジュール」ともいえます。
毎日数便が北米とヨーロッパ双方から出航していたという運航頻度には驚かされますが、当時の大西洋横断は大体、5日から一週間程度かかったことから推定すると、開戦時には十数隻くらいの客船が大西洋を航行していたことになります。
(もっとも、以下に触れたとおり、実際には予定通りの運航を行わなかったものもありました)
主なものをピックアップしてみましょう。
"クイーン・メリー"(英) → 8月30日サウサンプトン発の便が洋上で開戦を迎えたが、NYに無事到着。
"ノルマンディ"(仏) → 8月30日NY出港予定だったが、船主の指示でキャンセル。そのままNYで開戦を迎える。
"ブレーメン"(独) → 8月30日NY出港予定を繰り上げて出発しようとしたが阻止され、予定通り出港。
ただし乗客は乗せず、ドイツと不可侵条約を結んでいたソ連のムルマンスクに逃げ込む。
一方、9月1日にグラスゴーを出航したイギリス客船"アテニア"(Athenia)のように、Uボートに撃沈されてしまうという悲劇的な結末を迎えた船もあります。

さて、この予定表には船だけではなく、当時開通したばかりの大西洋飛行艇空路の時刻も掲載されています。
路線は2本あり、ひとつはカナダ(※)とアイルランドを経由してサウサンプトンに至る北大西洋空路、もうひとつはアゾレス諸島を経由してマルセイユに至る中部大西洋空路でした。
(※)Botwoodの所在が"New Foundland"と記載されていることに注目。ニューファンドランドは当時まだイギリス植民地だったのです。カナダに編入されるのは戦後1949(S24)年のこと。
パンアメリカン航空によって運航されたこれらの空路も、前者は開戦後一ヶ月・就航開始からわずか3ヶ月で一般むけの路線としては運航中止、後者は中立国ポルトガルのリスボン止まりとなって辛うじてしばらくは維持されることとなります。
こうして大戦に突入した大西洋の交通ですが、まだまだ波乱は続きます。
たとえば、フランスの客船"ノルマンディ"は、1940(S15)年6月にフランス本土がドイツの占領下に入ると「敵性財産」となり、アメリカ当局に接収されてしまうという運命を辿りました。
ただ、これらについてはもはや「時刻表」で語れない部分ということで、この辺で筆を置くことにしましょう。
【おすすめの一冊】
野間 恒「豪華客船の文化史」(NTT出版 1993)
世界各国の客船通史として読みやすく纏められている好著。
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