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“トーマス・クック時刻表”の戦後市販再開第一号(1946年)

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ヨーロッパの鉄道旅行には欠かせない“トーマス・クックの時刻表”。
イギリスで創業した旅行代理店、トーマス・クック社が発行するこの時刻表の創刊は、なんと1873(M6)年。日本において新橋~横浜間に鉄道が開業したのがその前年なのですが、時代が江戸から明治に変わってまだ間もない時期にあたります。

実は創刊の年だけでみれば、イギリスにはこれよりもさらに古い鉄道時刻表が存在しました。
“ブラッドショー・大陸案内”は1847年の創刊。しかし、1961(S36)年に廃刊となってしまい、トーマス・クックが一世紀以上の歴史を今に至るまで更新し続けているのです。

ところで、この100年には様々な出来事がありました。なんと言ってもその筆頭が第二次世界大戦でしょう。

1939(S14)年9月、大戦の勃発に伴ってヨーロッパ大陸は戦場となり、一般人にとって旅行という活動は縁遠いものとなりました。当然、旅行者をターゲットとする時刻表にとってこの事態は致命傷。トーマス・クック時刻表も、その時点で休刊となっています。

ちなみに、第一次世界大戦の時には、戦場となった地域の時刻は開戦前の内容のままとはいえ、時刻表自体は毎月刊行が続けられていたといいますから、このことからも第二次世界大戦のインパクトがうかがえます。

クックが復刊したのは大戦終結翌年、1946(S21)7月のこと。しかし、表紙には"STAFF USE ONLY"と記載され、事務用ということで一般には市販されていません。
正真正銘、一般むけとして再登場したのは同年11月でした。本日紹介するのはまさにその市販再開第一号です。

オレンジ色の表紙、大体B5版というのは今日のものとあまり変わりません。しかし、戦前の号はこの約半分のサイズだったので、当時はガラっと印象が変わったことでしょう。
ちなみに、今日のものは背の糊だけで製本されていますが、この頃まではゴムのような細紐でも綴じられていました。

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目次に目を移しましょう。
前半がヨーロッパ各国の鉄道、後半が船舶の時刻という今と同じ構成ですが、ある国の欠落に気づきます。
それは「ドイツ」。当館でもしばしば記載しているように、大戦後のドイツは米英仏ソによって分割占領されており、鉄道も当時はまだそうした占領国による分割管理でした。

一方、ドイツに占領されていたチェコスロバキアやオーストリアについては、この時点ですでにドイツからは切り離されて国土を回復しており、鉄道も個別の管理に戻っています。
オーストリアは実際は分割占領状態でしたが、鉄道はオーストリア国営鉄道"Austrian State Railways"として一体に扱われています(翌年にオーストリア連邦鉄道"Austrian Federal Railways"に改称)。

もっとも、ドイツの項目が無いからといって、ドイツ国内がまったく掲載されていない訳ではなく、巻頭に纏められている国際連絡のページには、ドイツ国内を通るパリやロンドンから中欧・東欧への直通列車が載っています。
代表格はパリ発ウィーン行きの「オリエント・エクスプレス」。当時はシュトゥットガルトから分割して、プラハやその先のワルシャワにも至っていました(製本がもろく、内部をスキャニングできないのが残念です)。

ところで、この時刻表には旅行会社発行らしく、ビザの要否など各国の入国要件も記載されているのですが、その冒頭にはこんな一文があります。

『以下の地域への一般旅行者は軍の許可(Military Permits)が必要です。-ドイツ、オーストリア、ヴェネツィア・ジュリア州(トリエステ含む)、ビルマ、マラヤ、トリポリタニア、キレナイカ、エリトリア、ソマリア、ソマリランド、日本、韓国』
『ブルガリア、ハンガリー、ルーマニアへの入域は、Control Commissionの許可が必要です』

どこも枢軸側支配から連合軍による解放など激動の変遷を辿った場所。平和が到来したとはいえ、まだまだ自由な世界旅行は望めない時代だったのです。

そして、ソ連(ロシア)については『旅行をしたい人は個人的に領事館に申請すること』とあり、冷戦時代につながる不気味さがうかがえます。

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大戦中のパレスチナの鉄道・バス(1944年)



これは第二次大戦中にパレスチナで発行された鉄道とバスの時刻表(大戦中ということもあり民間航空はない)。
ご覧のとおり、全編ヘブライ語と英語の二カ国語表記になっているのが、イギリス委任統治領という当時のパレスチナの位置づけを物語っています。

ちなみに、発行は"PALESTINE TOURIST DEVELOPMENT COMPANY"となっていますが、一方でパレスチナ鉄道も"ISSUED BY"として名前が挙がっており、一体、どちらの発行なのかは判然としません。

表紙に掲載されているパレスチナ鉄道の広告には、『あなたの鉄道は現在戦時輸送体制にあり』『戦後の明るくよりよいサービスに備えています』といった時局を象徴する文言が躍りますが、まさにこの言葉通り、大戦中のパレスチナの鉄道は地中海東部における連合軍の輸送ルートとして重要な役割を果たしていました。

事実、時刻表の表紙裏には"THE SERVICES CLUBS IN PALESTINE UNDER THE AUSPICES OF THE JEWISH HOSPITALITY COMMITTEE WELCOME ALL MEMBERS OF H.M. AND ALLIED FORCES"と、パレスチナ通過・駐留の連合軍を歓迎する娯楽施設の宣伝が載っています。

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さて、イスラエルが建国されて周辺のアラブ諸国との連絡が絶たれる前、パレスチナの鉄道は南はスエズ運河東岸のカンタラより、北はハイファから内陸の高原を越えて今日のシリアやレバノン方面へと路線が延びていました。
(画像ではカンタラからハイファまでの路線が見えますが、次ページにダマスカス方面への連絡が掲載されています)

なお、1942(S17)年には海岸線沿いにレバノン方面と連絡する路線が完成し、内陸を迂回しない輸送が始まっていたようですが、この時刻表にはそうしたルートの列車は載っていません。軍事輸送用だったからではないでしょうか。

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この時刻表の中で興味深いページのひとつが、近隣諸国への長距離バスの時刻です。
上の画像からもお分かりになると思いますが、ハイファ~ダマスカス~バグダッド、エルサレム~アンマン、エルサレム~バグダッドの3路線が載っています。

これらの路線に関わる周辺諸国の動きにも興味深いものがあります。シリアはもともとフランスの委任統治領でしたが、大戦中に独立を宣言。しかし、1944(S19)年当時は、まだフランスが独立を承認していないという中途半端な状態でした(フランスがシリアを手放すのは1946年のこと)。

ヨルダンはトランスヨルダンとして独立した政体が存在していたものの、立場的にはイギリスの委任統治領でした。

イラクはパレスチナと同じくイギリスの委任統治領だったものが1932(S7)年にイラク王国として独立。しかし、反英の空気が根強く、第二次大戦の混乱に乗じて枢軸側と手を組んでイギリスに反旗を翻そうとしたところ、逆にイギリスに侵攻されて占領の憂き目に遭っていました。

中東地域は、大戦中に独ソや太平洋のような連合国vs枢軸国の長期にわたる派手な攻防戦の舞台にはなりませんでしたが、戦争遂行に欠かせない石油という資源を持っていること、また、アフリカやアジア方面へのルートを確保するうえで重要な場所だったため、民族主義との軋轢の中で英・仏がガッチリと支配を固め、その結果、上記にみられるような交通網が大戦中にもかかわらず存在し得たと考えられます。

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全体で70ページあまりの冊子のほぼ9割を占めるのが、集落を結ぶローカルバスの時刻表です。
パレスチナでは、ユダヤ人の入植が進んでいましたが、必ずしも鉄道の近くとは限らないこうした入植地への足として、バスは重要な役割を果たしていました。
その中心は"EGGED"と呼ばれるバス会社。1933(S8)年1月に設立された中小のバス業者の連合体がその起源です。

よく見ると、バス停の名前に■が付いているものがありますが、脚注に記載されているとおり、"Jewish National Fund"によって開発された土地を示しています。
"Jewish National Fund"は画像に左ページに広告も出ていますが、20世紀初頭に発足し、今日も存在するパレスチナの国土整備・開発を目的とした組織です。

当時はまだイスラエル建国前ですから、ユダヤ人とパレスチナ人どちらかが国際的に明確な支配権を持っていたわけではありませんが、いままで見てきたようにこの時刻表全体を貫いているトーンは、バルフォア宣言以降のイギリスの立場、すなわち「イギリス政府はパレスチナの地にユダヤ人が国家を樹立することを支持する」というものに後押しされたもの言えるでしょう。

しかし、ユダヤ人すべてがイギリス支持だったのかと言えば、それも違うところが複雑です。
最初に触れた鉄道も、大戦後の1946(S21)年6月、右派ユダヤ人による反英爆破事件により、隣国との連絡上重要な橋が破壊されるなどの被害を受けています(「橋の夜」)。
また、3枚目の画像(長距離バスが載っているもの)の右ページに広告が見える「キング・デービッド・ホテル」(=ダビデ王という名前ですね)は「橋の夜」の1ヶ月後、同様の爆破事件によって100人近くが犠牲になりました。

そうした混迷のパレスチナ情勢がイギリスの支配に空白を生じさせ、やがて第一次中東戦争へとつながっていったのです。

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昔の空の旅-ツェッペリン飛行船で南米へ(後編)

前編につづいて、後編をお送りします。

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機上の楽しみといえば、朝昼晩の食事でしょう。とは言っても、やはり狭い機内ではメニューにも限度があるようで、どちらかというと質素な印象。
しかし、水素ガスを抱えた飛行船で、どうやってあたたかい食事の用意をしていたのでしょうか? 「グラーフ・ツェッペリン」の世界一周飛行の時、タバコは厳禁だったといいますから、いわゆる裸火は使えなかったのではないかと思います。

右下の写真はちょっと驚き。窓が開いています。しかし、せいぜい数百メートル程度上空を悠々と飛ぶ飛行船は、今日の高層ビルの屋上にいるのと同じだと考えれば、窓が開いても不思議ではないですね。

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いよいよブラジルの海岸へ到達。
キャビンは個室寝台車かビジネスホテルのよう。温水と冷水がでる洗面台を備えており、降機にむけての身支度も安心。

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クルーは郵便に記念スタンプを押すのに大忙しです。
このようにツェッペリン飛行船に搭載された郵便物は、今日でも趣味の世界では良い値で取引されています。

右ページ、リオデジャネイロ上空を飛ぶ写真からは、エンジンが格納されているゴンドラの構造がよくお分かりになるでしょう。

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いよいよ着陸。地上には飛行船から下ろされた繋留索を受け取る人々が多数待機しています。
やがて機体はそうした人々にコントロールされながらマストに係留され、3日間の旅が終わります。

ここリオデジャネイロからは、ルフトハンザ系の“コンドル”航空が、各地に接続しています。
右下の写真は当時の主力機であるドイツ製のユンカースJu 52。そのジュラルミンの波板という特徴ある外観は、リモワのスーツケースの宣伝によく取り上げられていて有名です。

ツェッペリン飛行船については、「時刻表歴史館」 http://www.tt-museum.jp/taiyo_0130_dzr1936.html でも触れていますので、あわせてご覧下さい。

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真珠湾攻撃とハワイアン航空(1941年)



「これは演習ではない」-今から70年前の1941(S16)年12月7日午前8時前(現地時刻)、ハワイ・ホノルルのアメリカ軍が発した警報です。
ちょうどその頃、アメリカ艦隊の本拠地である真珠湾は日本軍による急襲を受けていました。

太平洋戦争の開戦を告げる「真珠湾攻撃」。
現地は日曜日の朝を迎えたばかりでしたが、日本海軍機から投下された爆弾や魚雷の炸裂音が、平和な街を一転して地獄に変えました。

日本軍の攻撃が始まった頃、ホノルル空港(当時のホノルル空港とは、真珠湾の西に位置するジョン・ロジャース飛行場のこと。現在のカラエロア空港で、海軍基地でもある)では、一機のダグラスDC-3旅客機がまさにこれから出発しようとしていました。

今日紹介する時刻表は、1941年10月から有効、すなわち真珠湾攻撃当時のハワイアン航空の時刻表です。そこには、この運命の定期便が載っていました。

ハワイアン航空は、島々で構成されるハワイ諸島の足として、1929(S4)年に運航を開始しています。創業当時は水陸両用機による運航で、社名もその性格をそのままあらわす"Inter-Island Airways"と称していました。奇しくも1941年は、8月にDC-3陸上機を3機買い入れて機材の近代化を図ったほか、将来の太平洋空路への進出を念頭に、10月に社名を「ハワイアン航空」へと変更するなど、同社にとっては転機ともいえる年でした。

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時刻表からは、朝のホノルル空港から各島々へ続々と定期便が飛び立っていく様子がうかがえます。午前8時発のマウイ経由ヒロ行きが、まさに真珠湾攻撃の時に出発しようとしていた便でしょう。

攻撃を受けたのは、同社の社内番号9番・登録記号NC33606という機体。飛行場を攻撃しようと上空を通過した日本軍機に射撃され、コックピットが炎上したものの、2回目の射撃で流れ弾が消火器に当たり、幸いなことに勝手に火が消えたという逸話もあるようです。

この便には2名のパイロットと24人の乗客が乗っていたそうですが、辛くも全員無事に脱出しています。
ちなみに、当時はまだ客室乗務員は乗っておらず、同社初のスチュワーデスが採用されたのは、なんと大戦中の1943(S18)年のこと。この辺は、アメリカ流の楽天思考なのかもしれません。

なお、日本軍の攻撃により、同社の機体は一部を除いて軒並み被害を受けましたが、銃撃で開いた穴をふさぐなど急ピッチで修理を進め、約2週間で軍用という制限つきながらも運航が再開されています。

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ところで、真珠湾攻撃とハワイアン航空の関わりには後日談があります。

上の画像は、戦後1950年代に同社が発行した絵葉書。上述の9番の僚機である11番の機体が写っています。

注目していただきたいのは窓の大きさ。前後2つ、複数の窓をぶち抜いて横長に拡大された窓が見えます。これは"Viewmaster"(ビューマスター)と同社が呼んだ特別改造機で、1955(S30)年に就航しています。
同時に、機体の塗装も当時導入が進んでいた別の新鋭機に合わせた新しいものへと変更となりました。

この大型窓から望むハワイのダイナミックな眺望は好評を博しましたが、一方でDC-3は古い機体になりつつあったのも事実。ということで、せっかくの工夫もあまり長くは続かないまま、新鋭機の充実に伴って1950年代末期に同社のDC-3は売却されていきました。

その中の一機、まさに日本軍機の攻撃を受けた番号9番の機体が向かった先はなんと・・・日本だったのです。

当時、北海道内でローカル航空路線を運航していた北日本航空という会社がありましたが(※)、そこに落ち着いたのでした。

太平洋戦争という歴史の荒波、日米という過去の因縁を越えて活躍した希有な航空機。この生涯については、「日本におけるダグラスDC-3研究」というページに詳しいので、ご興味ある方はご覧いただくと良いかと思います。


(※)北日本航空はその後他社と合併して日本国内航空となり、東亜国内航空→日本エアシステムへと変遷しています。すなわち、今日のJALを構成する源流の一社とも言えます。


【おすすめの一冊】
"HAWAIIAN AIRLINES A PICTORIAL HISTORY OF THE PIONEER CARRIER IN THE PACIFIC"
 (STAN COHEN, PICTORIAL HISTORIES PUBLISHING CO. 1986)
 タイトルどおり、ハワイアン航空の創業から発展を、さまざま写真と資料で解説しています。

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tag : 昭和史日本航空の歴史

大戦直前の上海(1941年)



『上海特急』『上海バンスキング』『上海帰りのリル』と、近現代の上海という街は、数々の人生が交錯するにふさわしく、時として“魔都”とも形容される底知れぬ奥深さを秘めたメトロポリスとして、人々に一種独特の魅力を与えてきました。

ここに紹介するのは、日中戦争から数年が経過した太平洋戦争直前の上海で発行された、日本との間の航路の入出航予定表。

発行元は「華中旅行局」と聞き慣れない名前ですが、「ツーリスト・ビューロー」という記載からも分かるように、今日のJTBの前身である「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」の華中支部を指しているようです。
場所柄、「ジャパン」という地理的に限定的な文言が適当ではないということで、そうした別称を用いていたのでしょう。

この華中支部は元々、ビューロー満洲支部の華中出張所として1940(S15)年6月に開設されたものでしたが(もっとも、ビューローはこれ以前にも華中各所に出張所や案内所を開いていました)、同年12月に早くも満洲支部から独立して本部直属の組織として発足したという経緯があります。

こうした変遷は、全体的な組織論よりもとにかく拡大志向が優先した当時のビューローと、外地の観光・宣伝活動に対する政府や経済界の思惑とがようやく決着をみたもので、『日本交通公社七十年史』の記述を借りるならば「大陸機構問題」というべきものでした。

ところで、右端に掲載された上海発着の鉄道時刻表で、「海南線」という線名が見えますが、これは上「海」と「南」京を結ぶ線という意味。しかし、元々は京滬線という名称であり、日本側の「駅名決定委員会」なる組織で検討のうえ、1938(S13)年4月1日に改称されたものです。

これ以外にも華中の鉄道路線名や駅名は多数が改称されており、そんなところにも日中戦争の影響がみてとれます。

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さて、裏面はご覧のとおり、上海~日本間の航路と上海~大連間の航路の予定表です。

前者には、日中戦争を契機に中国大陸方面への航路の一元的運航を目的として1939(S14)年に海運各社が合同で設立した東亜海運および、太平洋航路に就航していた日本郵船による船便が見られます。
ほぼ毎日のように日本との間に就航していたことからも、当時の大陸との往来の激しさがうかがえます。

なお、『支那の航運』(東亜海運 1943年刊)にも記載されていますが、日中戦争開戦前までは上海~日本間には諸外国の遠洋航路が多数就航していました。
しかしながら、日中戦争とそれに続く第二次大戦の勃発により、英仏はもとよりドイツやイタリアの船会社もこの区間では活動を停止し、ここに記載されている船便が当時の日中間の客船による連絡のすべてだったと考えられます。

ちなみに、1939年にツーリスト・ビューローが発行した案内書「上海」では、郵船の便が発着する桟橋から、日本人が多数居住する虹口地区までは自動車で10分・1ドル50セントとあります。当時の日本人にとって、大陸との往来はまさにドア to ドアの感覚だったのかもしれません。

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tag : アジアの鉄道昭和史

昔の空の旅-ツェッペリン飛行船で南米へ(前編)

前後2回に分けて紹介するのは、1935(S10)年頃にドイツのハンブルク・アメリカ汽船会社が発行した、ツェッペリン飛行船によるドイツ~ブラジル航路の案内パンフレットです。
今日では幻の交通機関となってしまった大型飛行船で南米へ旅立ってみましょう。



表紙に巨大な雄姿を浮かべているのは、爆発事故で知られる「ヒンデンブルク」と並んで有名な「グラーフ・ツェッペリン」。1929(S4)年には世界一周飛行の途上で来日したという経歴もある、ドイツが誇る大型飛行船です。

これから読者の皆様に乗船いただくのは、背景の地図で示されている、ドイツのフリードリヒスハーフェンからリオデジャネイロへの航路。
フリードリヒスハーフェンは、ツェッペリン飛行船の建造地であり運航の本拠地。いわば飛行船のふるさととも言える場所です。

パンフレットの中身を見ていく上で必要になるので、ここで簡単に飛行船の構造について解説しておきましょう。

葉巻型の胴体の中には、水素ガスが充填された気嚢が収納されています。その前方下面に突き出ているのが、操縦室と客室が並ぶキャビン。そこから目を後方に移していくと、胴体下面に何個か丸いものがぶら下がっていますが、これはエンジンが収納されているゴンドラです。エンジンにはそれぞれ後方にプロペラが付いており、これが推進力となる訳です。

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このパンフレットは土地柄、ドイツ語・スペイン語・ポルトガル語・英語の4カ国語で書かれています。英語の部分をお読みになれば、大体意味はお分かりになるかと思います。

第一ページ目はこの航路に関する簡単な紹介。ドイツ~南米は3日間の旅でした。
左上に掲載されているのは、フリードリヒスハーフェンにあった巨大な格納庫です。着飾った紳士淑女は、これから始まる空の旅に胸を躍らせていることでしょう。

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いよいよ出発。

飛行船の頭脳・操縦室は、舵を切るステアリングの形やチャートを広げる姿など、どちらかというと船のたたずまいです。むしろ“操舵室”と言った方が良いかもしれません。

エンジンが収納されているゴンドラには胴体から梯子が架けられており、飛行中でも必要があればエンジニアがそれを伝って降りられるようになっていました。

洋上を行く飛行船の全景は雄大なものですが、尾翼にはナチスのハーケンクロイツが描かれていることにも注目して下さい。但し、飛行船をプロパガンダに利用するということについては、ナチス内部でも人によって関心の度合いが異なっていたようですし、ましてエッケナーなど、純粋に民間の交通手段として飛行船の製造や運航に携わる当事者にとっては不快なこと以外の何物でもなかったといいます。

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キャビンの中がどうなっていたのかは、上の配置図をご覧下さい。
前方から操縦室・航法室・無線室・キッチン・食堂・客室・洗面所と並んでいました。4人部屋が2つ、2人部屋が8室あったようですが、一人旅の人はどうしたのでしょうか?

『ツェッペリンに乗ると、船や列車や車とは世界が違って見えます』と書かれていますが、地上の風物がはっきりと見える旅というのは、現代の我々からすると雲海しか見えないジェット機の旅とも異なりますね。

ツェッペリン飛行船については、「時刻表歴史館」 http://www.tt-museum.jp/taiyo_0130_dzr1936.html でも触れていますので、あわせてご覧下さい。

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ベルリンと西ドイツを結んだ長距離バス(1949年)



第二次大戦の結果、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4ヵ国に分割占領されたドイツですが、首都・ベルリンはソ連占領地域の中に浮島のように存在する形になってしまいました。

時あたかも冷戦が始まろうかという時代。アメリカ・イギリス・フランスによる占領地域、いわゆる西ドイツに相当する地域とベルリンとの往来にはいろいろと不自由が生じることとなります。

米英仏の航空会社がベルリンに乗り入れ、西ドイツ地域との連絡にあたったことはよく知られています。また、鉄道でもベルリンと西ドイツ各都市を結ぶ連絡列車が運行されていました(一般向けの列車のほか、軍専用の列車ももありました)。
いずれも経由するルートは厳格に定められ、どこでも通れるという訳ではありませんでしたが。

もうひとつ、西ドイツとベルリンの連絡という役割を担ったのが道路交通、すなわち都市間バスでした。
ここに紹介するのは、1949(S24)年9月から10月にかけて西ドイツと東ドイツがそれぞれ成立する直前の、ベルリンとドイツ西部地域各都市を結ぶ都市間連絡バスの時刻表。
東西“地域”間を結ぶということで、"Interzonen - Autobusverkehrs"と記載されています。

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中を開くと、フランクフルト・ハンブルク・ミュンヘンなど、ドイツ西部地域の主要都市が漏れなくバスで連絡されていたことが分かります。
たとえば、ハンブルクへはベルリンの目抜き通りであるウンター・デン・リンデンを7時30分に出発し、リューベックを経由して16時30分頃到着するスケジュールなどがありました。

ところで1949年当時、日本では数時間かけて都市間を結ぶような長距離バスはまだ存在しませんでした。
それもそのはず、初の高速道路として名神高速道路が部分開通するのは1963(S38)年。有料道路すら存在していなかった時代です。

それとは対照的に、戦後まもないドイツでのこうした長距離バスの登場は、1930年代にヒトラーの肝煎りで進められたアウトバーンの建設というプロジェクトとは無縁ではないでしょう。
本格的に整備が再開されたのは1950年代以降のことですが、それでも大戦までに3800キロあまりが完成しています。

なお、運賃にDMWとDMOという二種類がありますが、これはドイツマルクの「WEST」と「OST」の区別を表しています。つまり、東ベルリン発の路線については東のドイツマルク(DMO)が適用されたという訳です。
ドイツの通貨については、この時刻表の前年、1948(S23)年に東西間で一悶着があり、ベルリン封鎖という事態の背景ともなっています。

なお、この時刻表は6月15日から有効ですが、ベルリン封鎖はまさにその前月まで継続していました。そういう点からも、この時刻表は東西の交通が再開された直後の貴重な記録といえます。

ちなみに、下記「おすすめの一冊」にも、封鎖解除直後の1949年5月12日に、シュトゥットガルター・プラッツ(ベルリン=シャルロッテンブルク駅前の通り)を歓喜に沸く大群衆に囲まれて出発する、ハノーバー行きバスの写真が掲載されています。

当時のバスは、連合軍のトラックなどを改造してお客さんの乗る箱を牽引させた「トレーラー・バス」といわれるタイプのもの。
このタイプは、乗客の急増と車両不足という事情を抱えていた戦後間もない東京などでも走っており、その辺については日本もドイツも変わらなかったようです。


【おすすめの一冊】
"VERKEHR IN BERLIN" (Haude&Spener 1988)
 19世紀から20世紀後半にかけてのベルリンに関する交通の写真集。市内交通編と遠距離交通編の2冊がある。

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プロフィール

ttmuseum

Author:ttmuseum
「20世紀時刻表歴史館」館長。
サラリーマン稼業のかたわら、時刻表を中心とした交通・旅行史関連資料の収集・研究・執筆活動を行う。

<著作>
「集める! 私のコレクション自慢」(岩波アクティブ新書・共著)

「伝説のエアライン・ポスター・アート」(イカロス出版・共著)

「時刻表世界史」(社会評論社)

「時空旅行 外国エアラインのヴィンテージ時刻表で甦るジャンボ以前の国際線」(イカロス出版)

その他、「月刊エアライン」「日本のエアポート」「航空旅行」(いずれもイカロス出版)、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)などに航空史関係記事を執筆。

<資料提供>
・航空から見た戦後昭和史(原書房)
・昭和の鉄道と旅(AERAムック)
・日本鉄道旅行地図帳(新潮社)
・ヴィンテージ飛行機の世界(PHP)
の他、博物館の企画展や書籍・TVなど多数。

「時刻表世界史」で平成20年度・第34回交通図書賞「特別賞」を受賞。

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