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“まやかし戦争”とルフトハンザ(1940年)



1939(S14)年9月に勃発した第二次世界大戦は、ナチス・ドイツの電撃的なポーランド侵攻をきっかけに英仏とドイツが交戦状態に突入したものの、その初期にはあまり目立った戦闘がなかったことが知られています。
この時期のことは“まやかし戦争”とか“奇妙な戦争”と形容されるのですが、今日紹介するのはその当時に発行された、戦争当事国であるドイツのルフトハンザ航空の時刻表です。

SOMMERFLUGPLAN =「夏期航空時刻表」ということで、1940(S15)年5月1日から有効のこの時刻表の表紙は、当時の戦況を反映しているのか、とてものどかなものです。

夏雲を背景に緑の丘の上を飛ぶのは、フォッケ・ウルフFw200コンドル旅客機。第二次大戦前夜のドイツが長距離旅客機として開発した機体で、大西洋無着陸横断(1938年になんとナチス・ドイツとアメリカを直行)や、はるか日本への親善飛行成功など、世界を又にかけた活躍が期待された機材でした。
当時のルフトハンザ機特有の塗装として、尾翼にナチスの鈎十字が描かれていることにも注目してください。

画像左側には当時のルフトハンザの営業所や各都市の代理店案内が記載されています。ここに、モスクワやミンスクといったソ連の都市も名を連ねているのが、この時代ならではのことと言えるでしょう。

「独ソ不可侵条約」-大戦勃発直前の8月に、どう考えても手を結ぶと思えなかった両国によって締結されたこの条約によって、ドイツのルフトハンザは大戦中にも関わらずベルリン~モスクワ線を運航していたのでした。

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時刻表の内部は、戦前のルフトハンザの時刻表の流儀に従って、路線がビジュアルに分かる記載方となっています。太線がルフトハンザ便で、細線が他社の運航による便なのですが、その路線網からは、当時のヨーロッパの枠組みが浮かび上がってきます。

すでにドイツと戦争状態にあった英仏への路線は姿を消していましたが、この時刻表が発行された月に侵攻が開始されるオランダやベルギーへは郵便貨物専用便のみとはいえ、ルフトハンザ便がまだ飛んでいました。

前月にドイツの侵攻を受けていたデンマークとノルウェーについては、ノルウェーでまだ交戦中だったものの、早くもベルリンからの路線が伸びており、ドイツの勢力拡大が窺えます。

中立国であるスウェーデンも、ドイツとの間の路線が運航されているほか、ストックホルム~リガ~モスクワ線など周辺国との路線を維持していました。
一方、同じく中立国のスイスはこの路線図上にまったく見られません。中立国とはいえ、非常体制がとられた大戦初期の緊張感がこの路線図に表れているのでしょうか?
しかし、スイス航空はほぼ大戦中を通じてナチス・ドイツへの路線を維持し続けましたから、謎は深まります。

イタリアやバルカン半島といった枢軸側各国への路線が運航されているのは自然の流れ。
話は横道に逸れますが、ローマを中心としてイタリアが稠密な路線網を維持していることにも注目です。ちなみに、この路線図から直接は読み取れませんが、当時すでにイタリアによって併合されていたアルバニアのティラナを中心に、SCUTARI(シュコドラ)などアルバニア域内へ伸びる路線についても、イタリアの航空会社が運航していました。

フィンランドやバルト海沿岸も従来からのルフトハンザの路線ですが、当時これら地域はソ連の軍事的脅威にさらされている真っ最中でした。
その渦中を淡々とルフトハンザが飛んでいるのも、実は独ソ不可侵条約でこの地域の扱いが秘密裏に合意されていたということが背景にあると考えられます。

しかし、この地域がいかに危うい場所であったかを物語るエピソードが、この時刻表発行の翌月に発生します。
タリン(この路線図ではドイツ式にREVALと表記)発ヘルシンキ行きのフィンランド航空機をソ連軍機が撃墜。ソ連はバルト諸国の併合が他国の外交文書から明るみになることを恐れ、アメリカ公使館の文書を搭載した定期便を狙ったのでした。

画像左端にはさりげなく"NACH NEW YORK"(ニューヨークへ)との文字。
ポルトガルは中立だったので、同じくまだ参戦していなかったアメリカとの間に飛行艇による定期便が運航されており、民間人も形の上では安全に大西洋を往来することが可能でした。

この後、ナチス・ドイツは西欧へ侵攻し、同年夏のバトル・オブ・ブリテンでヨーロッパの空はさらに危険なものとなります。
翌年に独ソの不可侵が破られると中欧から東欧の全域が戦場となり、ルフトハンザの活躍の場はさらに縮小。ドイツ降伏の直前まで少ないながらもなんとか路線は維持されたものの、敗戦とともにその活動の幕を閉じました。

これにて本年の更新は最後になりますが、ご愛読ありがとうございました。
来る年もよろしくお願い申し上げます。


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(かなり偏った)バルト三国旅行報告~その2

その1に引き続き、バルト三国旅行報告です。
本日はヴィリニュス市街の様子をおもに紹介します。

これは聖ペテロ・パウロ教会前から撮影したものですが、世界遺産となっている旧市街とは対照的に、川向こうの新市街には近代的なアパートが建ち並んでいます。近代的とは言っても随分と老朽化も進み、小綺麗という訳ではありませんでしたが。

無機質な箱形建築とトロリーバス・・・これぞ共産的風景でしょう。

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旧市街と新市街の境を流れるネリス川を渡ったところに、"Energy and Technology Museum"という博物館があります。
「エネルギーと技術の博物館」という名前のとおり、日本で言えば科学技術館とか国立科学博物館のような施設なのですが、展示量に関してそこまでの充実度はなく、分野的にはかなり限定された博物館です。

なんとこの博物館の建物は、1903(M36)年に運転を開始した火力発電所をそのまま利用したもの。
建物正面のてっぺんに、何かを持った彫像が見えますが、その右手で掲げているのは傘がついた電灯。ギリシャ神話のエレクトラの像で、ソ連時代に一旦撤去されたのち、1994年に再建されたとのことです。

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この博物館は大きく4つの分野で構成されています。
一つめはリトアニアのクルマ。二つめは発電施設。三つめはリトアニアの機械産業。四つめは子供向けの理科実験です。

最初の展示、リトアニアのクルマは、戦前から戦後にかけての実車展示が圧巻。
戦前のフォードやシトロエンの並びを抜けると・・・

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モスクビッチやジルといった共産主義車がずらり。
もちろん、その前にはフォルクスワーゲンなんかも置いてありましたが。

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そしてこの博物館の最大の目玉、発電施設の展示です。実際に稼働していた当時のボイラーやタービン、そしてその制御盤が今は静かに眠っています。
どれも旧ソ連製で、タービンなどは1946年(1947年だったかな?)の銘板が付いていました。

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階下に降りると、薄暗い空間にボイラーとそれらを繋ぐパイプが壁や天井を這っていました。アクション映画のラスト10分、ヒーローと悪役の戦いに出てきそうなシチュエーション。
油や焼けたような匂いがまだ感じられます。廃墟マニア・工場萌えの方々ならば悩殺されること請け合いです。

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あとは省略しますが、リトアニアでの機械工業に関する展示ということで、戦前の活版印刷機械や戦後作られていた家電製品(掃除機など)、コンピュータ(物置小屋くらいある初期のもの)が展示されていました。

ちなみに、エネルギーを扱っているいる博物館だけに、「原発」についての紹介がありました。
リトアニアは知られざる原発国で、なんとつい昨日も日本の某電機メーカーがリトアニアでの原発建設で仮合意締結というニュースが出ていました。
一方で、反原発の動きもあり、2008年には原発の操業をめぐって国民投票も行われたそうです(結果は投票自体が無効となった)。

ヘビーメタルの迫力に圧倒された後、ネリス川沿いを歩いてある「橋」へ向かいます。
バスの車窓から見て「おお~っ、これは!」と興奮し、是非とも駆けつけねばと思っていたその橋。
欄干に銅像が建っているのがお分かりになるかと思います。

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その銅像を正面から見たのが下の写真。2名の兵士をモチーフとしたもの。

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そして、渡った先には労働者のものが。右の人物が持っているのは削岩機です。鉱山か建設労働者をイメージしているのでしょう。

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労働者の像の下にはこの橋の由来が書かれたプレートが掲げられていました。

「緑の橋」と呼ばれるこの橋、もともとは16世紀に最初の橋が架けられたそうですが、その後何代か架け替えられ、現在のものはソ連時代の1952(S27)年に建設されたとのこと。当然、これらの銅像も、社会主義を象徴するものとしてこの時に制作され、取り付けられたものです。
解説プレートには、『ヴィリニュス市内で旧ソ連時代のこうした彫像が残されているのはここだけ』と書かれていました。

道の反対側には教育を象徴する像。その向こうには明らかにスターリン様式の建物も望めます。
橋の解説のとおり、本エントリーで最初に触れたアパートなどを除き、市街地-すなわち「ハレの場」に残る共産時代の面影としては、もはやここだけが1950年代から変わっていないアングルなのではないかと思います。

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今回の旅行で関心があったことのひとつに、バルト三国に共産時代の面影がどれくらい残っているのか?ということがありました。
ドイツでは旧東ドイツへのノスタルジーとも言える「オスタルギー」があると言いますし、ポーランドではトラバントに乗って共産遺跡を巡るツアーも催行されています。

しかし、バルト三国に関して見る限り、ソ連時代はもはや過去の遺物であり、KGBなどによる過去の蛮行の暴露や独立闘争という文脈で捉える時には博物館入りした歴史的事実として扱われるものの、基本的には時の流れの中に置き去りたい歴史なのだということが感じられました。

それは、ソ連の支配が強かったとはいえ独立国家として存在していた東ドイツやポーランドとは異なり、ソ連に強制的に組み込まれ、支配されてきたという歴史がそうさせるのでしょう。

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ホテルへ戻る途中、旧ソ連時代の映画館の廃墟がありました。
かつては賑わったであろうこの映画館も、そのうちに再開発されて跡形もなくなることでしょう。

続いてリトアニアのカウナス経由でラトビアへ向かいます。

(もちろん、旧市街などフツーの観光地もちゃんと見ていますよ(笑)。国立ユダヤ博物館は随分と考えさせられた。KGB博物館は休館日で見られず残念・・・)

アンダマン海に消えた大韓航空機(1987年)



1987(S62)年11月29日、経由地のバンコクを目指してビルマ(ミャンマー)沖のアンダマン海上空を飛行中の大韓航空858便は、北朝鮮工作員の仕掛けた爆発物により空中爆発。
これは、同年11月10日から12月末日まで有効-すなわち事件当時の大韓航空の時刻表です。

ご覧のとおり、翌年に控えたソウルオリンピックの馬術競技のイメージイラストが表紙を飾っています。

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この事件で犠牲となった858便は、時刻表の右上に見えます。
バグダッドを23時30分に離陸し、アブダビ経由でソウル到着は翌日の20時40分というスケジュールでした。
バンコクは「T」のマークが記載されていますが、テクニカルランディング、すなわち給油や乗員交替のための着陸で、乗客の乗降は不可という扱いです。

この事件のニュースを耳にした時、大韓航空ほどのメジャーなエアラインがボーイング707という古い機体をまだ使っていたことに驚いた記憶のある方もいらっしゃるのではないでしょうか?
(とはいえ、当時のJALも707のライバルだったDC-8を同年末まで使用)

しかし、いずれにしても同社の国際線で707を使っていたのは当時この路線だけだったことが分かります。
本来であれば他の中東路線のようにDC-10で運航されてもおかしくはなかったはずですが、機材繰りの関係か何かでこの時期はそういうスケジュールになったのでしょう。

この事件では、母国へ帰る油田関連の労働者多数を含む乗客104人と乗員11人が犠牲となりましたが、大韓航空は当時、イラクやUAE以外にもリビアやサウジアラビア、バーレーンへも寄港していましたから、その頃に韓国人の中近東への出稼ぎがいかに多かったかということが窺えます。

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この機体(登録記号HL7406)は、大韓航空が太平洋線の開設をにらんで1971(S46)年に導入した、同社の707としては最初にして最後の自社発注機ですが、そういう背景もあって往年の搭乗記念絵葉書にもその雄姿があしらわれています。

最後に、国際政治の犠牲となった悲運のフライトの鎮魂碑として、その絵葉書を掲げておきます。

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(かなり偏った)バルト三国旅行報告~その1

Twitterでも既報のとおり、12日から一週間の日程でバルト三国へ行ってきました。
本エントリーにて極めて偏った観点から(笑)道中を報告させていただきます。

成田からヘルシンキ経由で13時間かけてリトアニアのヴィリニュスへ。
今年は12月にしては暖かく、雪ではなく雨上がりのエアポートに到着。

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手荷物受け取りエリア。
弧を描く柱がエレガント。おお、共産系レトロ建築はスゲー!と旅のはじめから大感動。

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手荷物を受け取って到着ロビーへ。天井からはシャンデリア。宮殿か?この空港は・・・

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ヴィリニュス空港のHPによると、このターミナルは1954(S29)年10月に完成。時まさにスターリン時代ですが(正確にはスターリンは前年に死去)、意外とシンプルでおとなしい外観ですね。ロシア古典主義様式のボリショイ劇場をシンプルにした感じ。
設計は Dmitry Burdin と Gennadiy Yelkin という2名だそうですが、『戦争による収監者(戦犯・抑留者だろう)によって建てられた』と上述のHPに記載があります。
なお、文化財にもなっているこのレトロなターミナルは到着客専用として使われており、出発の場合はこの建物の裏、駐機場側に増築された近代的な施設の利用となります。

ホテルは駅の目の前だったので、翌朝に早速ヴィリニュス駅へ。空港と似通った外観ですが、こちらは19世紀の建築とのこと。
ちなみに、これは午前8時頃の撮影です。高緯度地方なので朝は遅く、明るくなるのは9時頃でした。

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エントランスを入ると大広間。

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大広間の奥に待合室があり、ホームへの出口が見えます。
ヨーロッパの駅だけに、改札口はありません。

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ホームの様子。『世界の車窓から』風(笑)

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切符売り場は中央ホールの両翼にあります。国際路線と国内路線に分かれており、これは国内路線の売り場。
海外の駅にありがちな、やや薄暗い佇まいです。そういえばホテルも“節電営業”で暗かったのですが、幸か不幸か日本で慣れていてあまり違和感はなく。

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駅前はバス乗り場になっており、普通のバスのほかにトロリーバスも発着していました。

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マクドナルド・ヴィリニュス駅前店。共産主義を含む激動の時代を生き抜いた駅舎と資本主義の申し子のコラボ。
リトアニア、ラトビア、エストニアとも、マックは普通に街中にありました。物価は日本と比べて安く、バーガーとポテト・ドリンクのセットが400円しない程度でした。

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ヴィリニュス駅の2階には鉄道博物館がありました。
火曜から金曜の9時~17時と土曜の9時~16時に開館。大人3リタス。(1リタス=約30円なので、ざっと100円位)
マグカップやキーホルダーなど、マニアにはうれしい“リトアニア鉄道オリジナルグッズ”も販売。

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1966(S41)年開館なので、館内にはソ連時代からの鉄道系ハードウェアがぎっしり展示されています。
CCCPと書かれた紋章は、ソ連時代に機関車側面に掲げられていたエンブレム。

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壁には鉄道開業から現在に至るまでの年表や写真・資料を展示。

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戦前の駅事務室?を再現したイメージ展示の机上に置いてあった1933(S8)年の時刻表。これは是非ともいつか入手したい!

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次はヴィリニュス市街編です。

古き良き上海に発着したアメリカの太平洋航路(1935年)



少し前のエントリー、大戦直前の上海(1941年)よりさらに6年の時を遡った資料を紹介しましょう。

「美國郵船公司」の文字もエキゾチックなこの資料は、アメリカの船会社である「アメリカン・メイル・ライン」(AML)の1935(S10)年の太平洋航路予定表。
「美國」とは中国でのアメリカの呼び名です(「美利堅合衆國」あるいは「亜美利加」に由来)。

アメリカと中国を結ぶ太平洋航路の歴史は古く、「パシフィック・メイル」(Pacific Mail Steamship)が1867年1月に、サンフランシスコ~横浜~香港間の運航を開始したことがその始まりです。

1844年にアメリカと中国(清朝)が通商条約を締結し、それに続いて幕末の日本も開国。アメリカは鉱山や鉄道建設に人手を必要としており、東洋との貿易や労働者の往来が盛んになったことがその背景にありました。
こうして太平洋航路にはその初期から中国人(移住者、労働者)の需要が少なからず存在し、運航予定表も中国語バージョンが存在したという訳です。

ちなみに、福建省に「開平楼閣」という世界遺産がありますが、これは当時北米に渡った中国人労働者が一儲けの後、19世紀末期の排華政策の影響で帰国して故郷に建てた、当時としては珍しい高層住居です。

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上述のパシフィック・メイルは、カナディアン・パシフィックと並んで太平洋航路の両巨頭(日本にも「東洋汽船」がありましたが・・・)として君臨していましたが、1920年代に大きな転機が訪れます。

海運不況の中、アメリカの実業家で「ダラー・ライン」という船会社を所有していたダラー一族が、北太平洋航路を運航するアメリカ系船会社の再編を積極的に推進。当時他社の傘下にあったパシフィック・メイルは、1925(T14)にダラー・ラインに編入され、その名が消滅することとなったのです。
そしてこの翌年、当時すでにダラー傘下となっていた船会社に、シアトルをベースとする「アメリカン・オリエント・ライン」(AOL)という会社があったのですが、これをダラーによる買収を契機に改名したのがAMLでした。

上述のように、1920年代後半からアメリカ資本の太平洋客船航路は、すべてダラーによって握られたと言っても過言ではありません。

太平洋航路に就航するアメリカの客船に、大統領の名前が付けられるようになったのはこの頃のこと。運航予定表にも「○○総統」(プレジデント・○○)という船名がズラリと並びます。
ちなみに予定表に書かれている寄港地は、シアトル、ビクトリア、上海、香港です。

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さて、当時は桟橋施設が整っていないことで大型船が接岸できない港も少なからず存在しました。
市内を流れる黄浦江がそのまま港となっている上海もそのひとつで、太平洋横断航路のような大型船に乗船するには、川岸から小蒸気船(ランチ)を使う必要があったのです。

上の画像は、1936(S11)年7月22日のAML太平洋航路客船「プレジデント・マッキンリー」に接続するランチの時刻表。本船と"CUSTUMS JETTY"(税関桟橋)との間を一時間に一回の割合で朝から深夜まで往復していたことがわかります。

しかし、これは戦前の太平洋航路黄金時代最後の輝きとも言える資料です。

この約1年後に日中戦争が勃発。中国大陸水域から外国船会社は閉め出され、総帥・ダラーの死や業績の悪化、所有船の事故などの影響でただでさえ青色吐息だったダラー・ラインはAMLもろとも1938(S13)年に運航を中止。
戦後に日米間客船航路として名を馳せることになる「アメリカン・プレジデント・ラインズ」がこの後を引き継ぎましたが、太平洋に一時代を築いたダラーとAMLの名前は戦雲の陰に消滅したのでした。

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昔の空の旅-1961年6月の航空時刻表

非常に多い「昔の航空時刻表を見たい!」というリクエストにお応えして、何回かシリーズで昔の航空時刻表をアップしたいと思います。

まず初回は1961(S36)年6月に日本交通公社が発行したものです。



当時、日本には「日本航空」「全日本空輸」(全日空)といった大手のほか、伊豆諸島路線を運航する「日本遊覧航空」、北海道内に展開する「北日本航空」、関西を拠点に水陸両用機で西日本に路線を伸ばす「日東航空」といった中小航空会社が存在しました。
あとの2社は1964(S39)年に合併して「日本国内航空」となり、その後「東亜国内航空」→「日本エアシステム」と変遷して今日のJALに至る会社です。
「日本遊覧航空」は「藤田航空」となり、その後全日空に吸収される会社です。

当時はまだ国内線にジェット機は就航しておらず(日本航空が国内線にジェット機を初めて導入したのはこの年の9月のこと)、すべての便がプロペラ機による運航でした。

全日空はイギリスからリースしたバイカウント744が最新の機体ですが、ちょうどこの年の夏からは少し大型のバイカウント828、またオランダ製のフォッカーF-27「フレンドシップ」も導入されます。

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全日空は、バイカウントやコンベアといった新鋭機と古いDC-3では運賃に差があったことがわかります。
なお、日本航空と全日空が共通の冬期割引運賃を設定していたことが読み取れますが、当時はまだ航空輸送産業自体が成長期だった上、両者は新鋭機の導入によるサービス改善を巡って火花を散らしており、過当競争を避けようという意識が作用した結果がこうした横並びにつながったのです。

実際、時刻表の中で注目してほしいのは、東京~札幌間の以下のスケジュールです。

JAL605便 東京 9:35 → 札幌11:50 機種:ダグラスDC-7C
ANA51便  東京 9:30 → 札幌12:10 機種:コンベア440

JAL507便 東京11:00 → 札幌14:00 機種:ダグラスDC-4
ANA55便  東京11:30 → 札幌13:35 機種:バイカウント744 

JALとANAが使用機の違いによって抜きつ抜かれつの激しい競争を繰り広げていたことがわかるでしょう。

羽田・伊丹・八尾で遊覧飛行が行われていたのも時代を感じさせます。

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tag : 日本航空の歴史羽田空港の歴史昭和史

プロフィール

ttmuseum

Author:ttmuseum
「20世紀時刻表歴史館」館長。
サラリーマン稼業のかたわら、時刻表を中心とした交通・旅行史関連資料の収集・研究・執筆活動を行う。

<著作>
「集める! 私のコレクション自慢」(岩波アクティブ新書・共著)

「伝説のエアライン・ポスター・アート」(イカロス出版・共著)

「時刻表世界史」(社会評論社)

「時空旅行 外国エアラインのヴィンテージ時刻表で甦るジャンボ以前の国際線」(イカロス出版)

その他、「月刊エアライン」「日本のエアポート」「航空旅行」(いずれもイカロス出版)、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)などに航空史関係記事を執筆。

<資料提供>
・航空から見た戦後昭和史(原書房)
・昭和の鉄道と旅(AERAムック)
・日本鉄道旅行地図帳(新潮社)
・ヴィンテージ飛行機の世界(PHP)
の他、博物館の企画展や書籍・TVなど多数。

「時刻表世界史」で平成20年度・第34回交通図書賞「特別賞」を受賞。

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