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(かなり偏った)バルト三国旅行報告~最終回

3回に渡ってお送りしたバルト三国旅行報告ですが、本日のエストニア編で打ち止めです。

エストニアもラトビアと同様、首都のタリンしか観ていませんが、中世ハンザ同盟以来の雰囲気が色濃く残る、良い港町でした。例えるなら小樽でしょうか?

エストニアのソ連からの独立は「歌う革命」とも言われますが、ここがその舞台となった「歌野原」。「歌広場」ではありません。それではカラオケボックスになってしまいます。

ここでは5年に一度、歌の祭典が開催されます。なんと1世紀以上の歴史があり、独立時代はもちらんソ連時代も続いていたというのは驚き。
背中を向けている銅像は、エストニアの有名な愛国歌を作曲した、グスタフ・エルネサクスです。
正面のスタンドは1960(S35)年の完成とのこと。

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歌野原から海岸沿いに行くと、「ルサルカの像」が見えます。
1893(M26)年にこの近くで沈没した軍艦「ルサルカ」の慰霊碑です。
タリンには海洋博物館があり、大きく穴が開いて湾曲したルサルカ像の碑文が展示されていました。大戦中の戦闘で破損したとのことで、現在のものは2代目のようです。

ちなみに、時刻表歴史館(本館)で展示中の、1962(S37)年のアエロフロート・ソ連航空時刻表(エストニア版)の表紙にも、大きくその姿が描かれています。

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他の2国と同様、エストニアも第一次大戦直後に独立を経験するのですが、これはその記念碑。

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ここの街はどこを見ても絵になる風景でした。
記念碑の前の道を進むと、市庁舎前広場に至ります。写真中央、横断幕が見えますが、その後ろの建物は古本屋。掘り出し物を求めて入った戦利品は・・・

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1990(H2)年のエストニア周辺鉄道時刻表。(ソ連時代末期のもの。表紙は当時モスクワ~レニングラード間で活躍していたER200電車)

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1950年代のビリニュスの観光パンフレット。(ロシア語版)

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同様に、カウナスの観光パンフレット。

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ソ連時代のものは当時なかなか西側には流出しませんでしたから、やはり現地でならではの紙モノがいろいろありました。しかも、売値は数ユーロ。

さて、お約束の駅めぐり。
タリンの駅は旧市街の城壁の隣にある、無機質な直方体です。当然、ソ連時代の建築。

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駅の内部。一国の首都の駅ですが、かなり閑散としていました。

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改札はなく、ホームに入り放題ですが、なんとなくくたびれた感というか、寂しさの漂う終着駅です。
ちょうど、タルトゥからとおぼしき電車が到着。
朝にバスで通りかかった時は客車が停まっていましたが、夜行列車は客車で、昼間の国内列車は電車という感じのようです。

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駅の隣には蒸気機関車が保存されています。
ソ連時代に貨物列車用として大量生産されたL型蒸気機関車のようで、動輪5軸というのはなかなか迫力があります。
何かいわれがある車両なのかは、説明板も何も見あたらなかったので分かりませんでした。

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夜はコンサートホールでエストニア国立交響楽団85周年記念シリーズの演奏会を聴きました。
このコンサートホールは戦前の建築ですが、大戦中に爆撃を受けたのを修復されたりと、激動の歴史をくぐり抜けて今に至っています。

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当夜のプログラムは、エストニア出身の世界的指揮者であるネーメ・ヤルヴィによる十八番。
やはりエストニア出身の作曲家で、大戦中にスウェーデンへ亡命したトゥビンの交響曲第5番(1946)と、ソ連の現代作曲家の最高峰・ショスターコービチの交響曲第7番「レニングラード」(1942)。
演奏会の副題に「戦争交響曲」と掲げられていましたが、まさにそのキャッチフレーズにふさわしい2曲です。

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ショスタコービチの「レニングラード」は、表向きはナチス・ドイツの猛攻に耐えるソ連軍・ソ連市民の姿を高らかに歌い上げた“プロパガンダ”曲。そんな曲をソ連に対する拒絶反応の高いエストニアで演奏するのはどういうことだろうか?という疑問も沸きますが、実はファシズムだけではなく、人民を迫害するスターリニズムに対する批判もこの曲に込めらているのだということも云われている訳で、そういう視点でみれば至極まっとうな選曲と言えるでしょう。

愛する故郷を捨てたという経験を持つ作曲者と指揮者(ヤルヴィは80年代に西側へ逃れている)の組み合わせで、戦争という極限状態を通して国を愛するということや人間のたくましさを表現するという、希有なコンサートを聴くことが出来たのは幸せなことだったと思います。

旅の最終日、空港へ向かうバスの中から見えたスターリン様式の建物。1959(S34)年と刻まれていました。

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そしてタリン空港。
このターミナルはモスクワオリンピック1980(S55)年に向けて完成したもの。オリンピックではタリンでレガッタ競技が行われました。

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1936(S11)の開港から75周年ということで、パネル展が行われていました。
これはソ連からの独立闘争時の時のものと思われます。出来てから30年しか経過していない建物ですが、激動の歴史を見つめてきたのですね。

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では、先代のターミナルはといえば、駐機場の片隅にまだ残っています。写真中央やや左に見える、灰色の建物がそれです。

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ここからフィンランド航空でヘルシンキへ向け、バルト海を横切る30分あまりのフライトに搭乗します。
フィンランド航空のタリン~ヘルシンキ線といえば、大戦中の1940(S15)年6月、ソ連軍による撃墜事件が発生したといういわくつきの路線。外交文書を運んでいたフィンランド航空機は、バルト諸国の軍事封鎖を秘密裏に進めたいソ連による“口封じ”の犠牲になったのでした。

旧ターミナルのアップ。1938(S13)年に着工され、1954(S29)年に完成したとのこと。

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これで旅行報告を終えますが、3国とも共産時代を直接思い起こさせるような風景は意外に少ないものでした。独立から20年が過ぎ、各国はすでに元々の民族の手でそれぞれの表情をみせています。逆に、共産時代を経ても、旧市街など史跡がそのまま生き残っているというのも驚きでした。
駆け足で巡ったので、博物館などをじっくりと見学する時間がなかったのは心残り。またいつか再訪したいものです。
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ナチス・ドイツに飛んでいた“中立国”スイスのエアライン(1944年)

スイスと聞いてまず思い浮かべるのは、「アルプスに抱かれた平和で牧歌的な国」というイメージでしょう。
たしかに、19世紀から続く永世中立国という特異なスタンスによって、スイスは世界各国で起きる国家間の争いからは縁遠い位置にあるというのは事実と言えます。

一方で、かつては原爆の保有を考えたことがある位、アグレッシブな面をスイスは持っています。
永世中立とは、丸腰で平和を主張するということではなく、他のどの国とも連合しない一方で、自分の身は自分で守る-つまり、自国の主権が他国によって侵されるようなことがあれば、時に武力を行使してでも自らの手で自国を守り抜くという決意のもとに成り立つ概念だからなのです。

しかし、国際関係はそこまで甘いものではありません。
時として永世中立が妥協を強いられる局面があったのも事実でした。



今日紹介するのは、第二次世界大戦末期・1944(S19)年1月にスイス航空が発行した時刻表です。ちなみに、スイス航空は2002(H14)年に倒産してしまっており、今日のスイスのフラッグキャリアであるスイスインターナショナルエアラインズは、スイス航空のグループ会社がスイス航空を継承したものです。

この時刻表は、表に時刻・裏に旅客むけの案内事項が記載された小さな一枚もの。
戦前のスイス航空は、もちろんヨーロッパ主要都市に路線を伸ばしていましたが、当時はチューリヒからドイツのシュトゥットガルトだけに就航していました。もっとも、戦時中に民間航空路線が残っていたということ自体がまず驚きといえるでしょう。
機種はダグラスDC-2。大戦中のナチス・ドイツにアメリカ製旅客機が飛んでいたこと自体、ちょっと違和感があります。

この路線、1942(S17)年の時点ではシュトゥットガルト経由でベルリンまで運航されていましたが、連合軍がドイツ本土爆撃を行うようになると短縮されてしまったようです(それでも、この時刻表にはベルリン方面へのルフトハンザ便の連絡が記載されています)。

ところで、永世中立のスイスは、第二次大戦中にどのような位置づけにあったのでしょうか?
その答えの一端がこの時刻表から見えてきます。

ナチス・ドイツはスイスへの侵攻計画を持っていたといいますが(結局、発動はされず)、実際にはドイツとスイスの間にも貿易や物流・金融など密な関係があったことが知られています。周囲をナチス・ドイツをはじめとした枢軸国に囲まれてしまった以上、好むと好まざるとにかかわらず、上手く付き合っていかざるを得ませんでした。それが、ドイツへの路線維持となって表れている訳です。

時刻表の下の方に目を移すと、シュトゥットガルトからイベリア半島へ伸びる路線の時刻が見えます。
これはドイツのルフトハンザが運航していたものですが、シュトゥットガルトでこの路線に乗り継ぐと、同じく中立のスペインやポルトガルに達することが出来ました。
これらは大西洋に面していましたから、潜水艦の危険を避けることができれば、空と海から連合国側の人間もアクセス可能であり、枢軸側と連合国側両者にとって数少ない接点となり得る場所。もちろん、中立国スイスにとっても連合国側との貴重な窓です。

このように、対枢軸・対連合国という相反する方向へのアクセスが大戦真っ只中の一枚の時刻表に納まっているというのは、まさにスイスという国ならではのこと。しかし、スイス航空にイベリア半島方面への路線がなく、ドイツへの路線しか運航されていないというあたりは、枢軸寄りだというスイスへの批判からも合点がいく事実です。

1944年は激動の年でした。
ノルマンディー上陸作戦とそれに続くフランスの解放。これにより、枢軸国に囲まれた状態から地理的にも連合国と枢軸側との狭間へと周辺環境が変わったスイスは、大戦末期の和平工作の舞台ともなります。

(画像をクリックすると拡大します)

薩南諸島・時刻表から消えた島(1927年)



鹿児島の南、東シナ海に連なる吐噶喇(トカラ)列島。
2009(H21)年には皆既日食の観測でも有名になりましたが、この島々は鹿児島県鹿児島郡十島(としま)村に所属しており、現在は十島村営のフェリーによって鹿児島と結ばれています。

このトカラ列島への航路の歴史は1907(M40)年に始まり、戦前には大阪商船が鹿児島~奄美大島間をトカラ列島経由で結ぶ「大島十島線」を運航していました。
ここに紹介する資料は、1927(S2)年9月に発行された大阪商船の日本近海航路の運航予定表。日本近海といっても、当時の日本の版図を反映し、朝鮮半島や台湾・中国大陸との航路も多数掲載されています。

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運航予定表の真ん中下の方に、その大島十島線が見えます。

この航路には二種類あり、3日かけて人の住んでいる島をすべて巡るものと、その中でもさらに主な島だけに寄港する「四ヶ島線」があったことがわかります。
運航頻度はそれぞれ月1回。現在の十島村営のフェリーは月に12航海とのことですから、随分と便利になったもものです。

ところで、この大島十島線の寄港地には、現在では無人となってしまった島が含まれています。

それは臥蛇(がじゃ)島。

最盛期には100人程度の人口があったといいますが、戦後に過疎化が進行し、1970(S45)年7月を以って全島民が島を去りました。
現在の十島村営のフェリーは生活航路の性格が強いせいか、もともと全国版の時刻表に掲載されていませんが、今後仮に掲載されたとしても臥蛇島の名前が現れることはまず考えられず、そういう意味で「時刻表から消えた島」と言ってもあながち間違いではないでしょう。

「時刻表から消えた島」はこのほかにも、近海郵船の小笠原航路で触れた伊豆諸島の鳥島や、軍艦島の別名で知られる長崎県の端島が知られています。

平時に島が無人になる理由としては、鳥島の場合のような自然災害(火山活動など)や、炭坑の閉山で無人となった端島のように島のコミュニティが依存する産業の活動停止などが挙げられます。
しかし、臥蛇島は地理的にきわめて隔絶性が高いという“ロマン”の上に、そうした隔絶性によって醸成された地縁社会が「過疎」というきわめて人間的・社会的な理由で自然崩壊を余儀なくされたという、社会問題であるのと同時に「諸行無常」や「もののあはれ」にも通じる“物語”を有しているという点で、日本における無人島化の歴史の中でも八丈小島などと並び、注目度が比較的高い部類に入るのではないかと思います。

大阪商船のこの予定表は、無人となった離れ小島にもかつては人々の生活が存在したということを今の世に伝える貴重な生き証人・語り部と言えるのかもしれません。

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tag : 昭和史

シナイ半島にも路線を伸ばしたイスラエルのバス(1972年)



イスラエルのメジャーなバス会社である、エッグバスの時刻表です。
これは、イスラエル南端・アカバ湾に面した観光都市であるエイラートを中心とした路線が掲載された地域版。

イスラエルの地図をみていただけるとお分かりのように、エイラートは東はヨルダン・西はエジプトに挟まれて、イスラエル南部がペン先のように細くなった突端に位置しています。

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そんなエイラートからの路線は、テルアビブはもちろん、エルサレムやハイファといったイスラエル主要都市に伸びていますが、それらの中にはこの時刻表が発行された時代ならではの街の名前も見えます。

-それは"OFIRA"。

耳になじみのない名前ですが、その右に小さく書かれた"Sharm e Sheikh"がヒントになるでしょう。

1967(S42)年の第三次中東戦争の結果、イスラエルはそれまでエジプト領だったシナイ半島を占領。スエズ運河以東を支配下におさめました。
"Sharm e(l) Sheikh"は、シナイ半島突端近くに位置する港町“シャルム・エル・シェイク”のことですが、イスラエルはここに入植地"OFIRA"を建設したのです。
"OFIRA"とはソロモン王の物語に出てくる金鉱の街・オフィールに関連した名前。さすが神々の国は地名の付け方も神がかり的でした。

ちなみに、中央下に見える"FIORD"もアカバ湾に面したシナイ半島の景勝地で、元々はエジプト領です。

時刻表によるとエッグバスはエイラートからオフィールまで一日2往復、また、テルアビブ~オフィール間に一日1往復を運行していたようです。
但し、欄外に注意。すべてのバスは日曜~金曜の運行で、土曜日は運休。安息日が厳格に守られます。

この時刻表の翌年、1973(S48)年10月の第四次中東戦争を契機に、イスラエルとエジプトは和平に合意。シナイ半島は1982(S57)にエジプトへ返還されることとなります。
占領地へのバスが往来したエイラート~シャルム・エル・シェイク間ですが、平和が戻った現在は、アカバ湾を往来するクルーズ客船が両都市に寄港することもあるようです。

【おすすめのリンク】
エッグバスのオフィシャルサイト
 博物館で多数の実車を保存。なんと、テロで骨組みだけになってしまったものまで!(英語)

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昔の空の旅-1964年7月の航空時刻表

大好評だった1961年6月の航空時刻表に引き続き、今回は1964(S39)年7月の航空時刻表を紹介します。

1964年といえば、言わずと知れた東京オリンピック・イヤー。
高度経済成長の真っ只中を走る日本の、あらゆる分野で劇的な進化がみられた年です。

今回紹介する素材は、現在、関西国際空港や大阪国際空港で売店やケータリング事業を営む株式会社朝日エアポートサービスが発行し、空港利用者に配布されていたものです。



この時刻表の第一のみどころ、それは「夢のジェット機」といわれたボーイング727が全日空の東京~札幌線に就航を開始しているということでしょう(時刻表では『727』と表記)。

1961(S36)年9月に日本航空が国内線初のジェット機としてコンベア880(時刻表では『JET』と表記)を導入して以来、まだプロペラ機だけで運航していた全日空は劣勢に置かれていましたが、ボーイング727の導入で遂にJALと互角の競争力を得ることができたのでした。
3発のエンジンを尾部に纏めたT字型尾翼という斬新なスタイルは、まさに「夢のジェット機」と呼ぶにふさわしく、吉永小百合と橋幸夫が歌ったキャンペーンソングなど、その大々的なプロモーションはいまだに語り草となっています。

じつはこの727、本当はJALとANAが揃って翌年の1965(S40)年に導入予定でしたが、一刻も早くライバルを出し抜きたいという思いでANAがボーイング社からリースして、この年の5月に導入したものでした。
この“フライング・リース”では一機しか導入されなかったため、検査の都合から日曜日は休航だったことがわかります。

当時のANAは幹線におけるJALとの競争の一方で、東京や大阪から地方に向かうローカル線の開発にも力を入れていました。
その路線展開はあたかもハブ(中心)から外縁へ照射される光線のようであったことから、「ビームライン」と呼ばれましたが、この時刻表にも東京から中国・四国、大阪から九州方面への路線が多くみられます。

ローカル線では、この年の4月に北日本航空・日東航空・富士航空の3社が合併して「日本国内航空」が設立されるという大きな変化がありましたが、運航する路線や機材はまだ合併前の3社それぞれのものをほぼそのまま引き継いでいる状態でした。

特に大阪を中心とする日東航空は水陸両用機を使用した運航で知られており、伊丹空港から紀州一周の名古屋線や、新居浜経由別府など空港のない場所への運航が行われていました。
ちなみに、機種欄の『GM』はグラマンG-73マラード、『G44』はグラマンG44ウィジョン水陸両用機を表します。

また、ローカル線でもうひとつ注目する点は、名古屋を基盤とする中日本航空がダグラスDC-3で大阪線・金沢線を運航していること。
前年の1963(S38)年に全日空から機材と一部路線を譲り受けて開始された同社の定期旅客輸送ですが、新幹線の開業など情勢の変化が原因で飛躍のきっかけをつかむことはできませんでした。結局、これは1965(S40)年早々までの短命に終わります。

JALとANAの2社のジェット機が出揃ったこの年以降、日本の空は本格的なジェット時代に突入。いよいよ大量高速輸送が本格化していくことになるのです。

(画像をクリックすると拡大します)

tag : 昭和史 日本航空の歴史 羽田空港の歴史

(かなり偏った)バルト三国旅行報告~その3

その2に続いて本日は、戦前にリトアニアの臨時首都だったカウナスから、ラトビアの首都・リガへの旅をお送りします。

カウナスは日本人にとって大変ゆかりの深い街です。外交官・杉原千畝が、第二次大戦初期にナチスの迫害から逃れるために押し寄せたユダヤ難民に対し、独断で日本の通過ビザを発行したのがここ。
「命のビザ」として知られるこのエピソードの舞台となった日本総領事館が現在も残り、記念館として公開されています。下の写真がまさにその建物なのです。

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もともと個人の家として造られただけに、外観にこれといった特徴はないですし、実際、山の手の普通の住宅街(といってもやや高級な土地柄らしい)にあります。
大使館など外交関係の公館というと、大都市のド真ん中にその国の建築様式で建てられた風変わりな建物といったイメージが浮かびますが、ちょっと意外。

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これが杉原が使っていたとされる机。
1940(S15)年、リトアニアのソ連への併合に伴って領事館は引き払われ、その後記念館が出来るまで半世紀以上の時が経過しているだけに、本当に彼が使っていたものであるかどうか100%の確証はないらしいです。
が、そうであると信じたい。

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山の手から市街へ。ここもやはりトロリーバスが健在。
街の中には廃墟と化した建物も散見され、やはり経済的にも結構苦しいのかなという印象。

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下はカウナス旧市街の隣を流れるネムナス川に架かる橋。長さ256mとのことですが、かつて「世界一長い橋」と言われたそう。
え? それ位の橋はいくらでもあるんじゃ??? と疑問に思われるかもしれません。この橋が「世界一長い」と言われた理由、それは“とんち”の類なのです。

19世紀初頭前後、カウナスを含むリトアニアはロシア領でした。一方、この川を挟んで反対側はプロイセンあるいはワルシャワ公国が支配。ロシアは革命までユリウス暦を使っていましたが、一方でプロイセンなどはすでに現在の暦を使用しており、この橋を渡るということは、異なった暦を使っている国の間を往来することになる訳です。
ということで、渡ると「時差」どころか「日付」すら変わってしまう-そこで『渡るのに数日かかる』などと言われたのが「世界一長い橋」の真相でした。

なお、現在の橋桁は大戦後間もなくソ連時代に再建されたものです。

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リトアニアは十字架で有名です。教会ばかりではなく、家の庭先や道端に木の十字架が立っていたりします。
そんな中、カウナスからリガへ向かう道すがら、十字架で埋め尽くされたその名もズバリ「十字架の丘」があります。

最初は一個だった十字架が、長い年月の間に数万にも増大し、宗教が弾圧されたソ連時代にはもちろん、撤去の動きもあったといいますが、結局は元のとおりになってしまったとか。
日没直後に通ったのですが、恐山、賽の河原にも似たおどろおどろしい雰囲気とは裏腹に、旅人の篤い信仰心が表れた聖地なのですね。

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すっかり夜になり、リガへ到着。カウナスからはバスで5時間ほどかかりました。
ホテルにチェックイン後まずは中央駅へ。典型的なソ連時代の駅舎建築です。

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やはりここにもマックがあったか・・・。マクドナルド リガ駅前店。

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ホテルは19世紀から存在するクラシックホテルだったのですが、エレベーターにはロシア語のボタンが。
右の赤いボタンは「ストップ」と書かれた緊急停止ボタン。左の黒いのには「ドア」という意味の単語が書いてありますが、「開く」ボタンか?

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翌日は旧市街観光なのですが、その中から絶景ポイントを紹介します。聖ペテロ教会です。

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エレベータで教会の尖塔に登るとリガの市街が一望できます。画面左がリガ中央駅。
おっ、スターリン様式の建築も見えますな。ラトビアの科学アカデミーとのこと。

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視線を右に移すと、ダウガワ川が滔々と流れています。
折しも鉄橋を貨物列車が渡っていました。こういうとき、やはり撮ってしまうのがマニアのお約束。(笑)

遠くに見えるのは共産圏ではおなじみ、ラジオ・テレビ塔です。
リガのものはやはりソ連時代の1986(S61)に完成したもので、高さは368m(ということは、東京タワーより若干高いという感じですね)。EU内で見てももっとも高い塔だそう。

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再び地上に戻り、市街観光を続けます。
リガにはアールヌーヴォー建築が多数存在しています。悪趣味なほど凝りに凝った装飾が施されたアパート、雑居ビルが軒を連ねる様は壮観ですが、下の画像はその中でもやや地味な一軒。ロシア大使館です。

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ロシア大使館の筋向かいには、パッと見すぐに共産時代からのものと判る建物が残っています。
1982(S57)年築のRiga Congress Centre。

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残念ながら短時間の滞在でリガからエストニアのタリンへと移動。
道路は地図でみると海岸線沿いに走っているのですが、実際に海が見えるところは意外に少なかったです。
これはエストニアとの国境近いとある集落。向こうに見えるのはバルト海-というよりは、正確にはバルト海に開けているリガ湾。

灰色の空といい、どちらかというと日本海側、北陸本線の富山と新潟の県境を走っているような感覚に襲われました。

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ついにラトビアとエストニアの国境に到着。
画像の奥に見える料金所のようなところが、かつて国境の検問所だった施設です。現在ではまったく係員ははおらず、もちろん何のチェックもなく通過しました。
(ちなみに、リトアニアとラトビアの国境がどんな様子だったのかは爆睡していて分かりませんでした)

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リガにはナチスドイツやソ連による占領を記録する博物館など、興味深い施設がいろいろあるのですが、残念ながら時間がなく、そうした施設は見られませんでした。
ネット上で詳細レポートをアップしている人もいますので、興味ある方は検索してみてはいかがでしょうか。
プロフィール

ttmuseum

Author:ttmuseum
「20世紀時刻表歴史館」館長。
サラリーマン稼業のかたわら、時刻表を中心とした交通・旅行史関連資料の収集・研究・執筆活動を行う。

<著作>
「集める! 私のコレクション自慢」
(岩波アクティブ新書・共著)

「伝説のエアライン・ポスター・アート」
(イカロス出版・共著)

「時刻表世界史」(社会評論社)

その他、「月刊エアライン」「日本のエアポート」(いずれもイカロス出版)、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)などに航空史関係記事を執筆。

<資料提供>
「昭和の鉄道と旅」(AERAムック)
「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)
「ヴィンテージ飛行機の世界」(PHP)
の他、博物館の企画展や書籍・TVなど多数。

「時刻表世界史」で平成20年度・第34回交通図書賞「特別賞」を受賞。

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