ヴィシー政権下のAIR FRANCE(1941年)

エールフランスといえば有名画家によるポスター広告など、さすがは文化の国・フランスのフラッグキャリアだけあって洗練された航空会社という評価が古くからありますが、ここに紹介する同社の時刻表はそんなイメージとは正反対をゆく資料です。
1939(S14)年9月に始まった第二次大戦で、フランスはナチス・ドイツによる侵攻の結果、開戦から一年も経たないうちに国土の北半分はナチスに占領され、南半分には温泉保養地であるヴィシー(Vichy)を首都とするナチス寄りの政権が樹立されました。
この時刻表はそんな時代の1941(S16)年9月に発行されたものです。
かつては極東のインドシナや南米にまで翼を広げていた同社ですが、そんな面影はまったくうかがえず、モノトーンの単調で粗末な時刻表からは、ヴィシー以南の本国とアフリカを結ぶ路線だけが運航されていたことがわかります。それでも、戦時中に運航が続いていたこと自体が奇跡かもしれません。

就航地には、あの名画の舞台・モロッコのカサブランカも含まれていました(時代的にもこの時刻表と映画はほぼ同じ)。
このことからも分かるように、北アフリカや西アフリカといった戦前からのフランス植民地は、そのままヴィシー政権に引き継がれています。
これは極東のインドシナ(日本でいう仏印)なども同様でした。その結果、ドイツとともに枢軸側だった日本は、同じく枢軸寄りのヴィシー政権支配下の植民地である仏印へ進駐することが可能となった訳です。
しかし、ナチスに媚びるヴィシー政権がずっと支持されたはずもなく、これら植民地の多くは次々と離反。1942(S17)年に北アフリカが連合軍に侵攻されると、ナチス・ドイツはフランス全土を占領してしまいます。こうして、政権は残ったものの固有の国土を失った国家は、1944年(S19)の連合軍の上陸作戦によるフランス解放によって幕を閉じました。
エールフランスはというと、1942年にフランス全土がナチス・ドイツの支配下に入ったのを契機にフランスのエアラインとしての存在意義を失い、ルフトハンザがその後を継いでいます。
しかし、これによってエールフランスのDNAが途絶えたわけではなく、いわゆる亡命政権である「自由フランス」にもかつての同社の関係者によってエアラインが発足しており、戦後はこちらの流れによって再びエールフランスは甦ることとなりました。
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