ローデシア鉄道(1950年)
世界史の中には往々にして、キワモノ国家とでもいうべき国が存在します。つまりは「お騒がせ国家」。自国内あるいは周辺国、時には世界を相手にトラブルを抱えていて、しばしばニュースに登場するといった感じです。
今日、紹介する時刻表は、かつてアフリカに存在したそんな国家、ローデシア(Rhodesia)のもの。
アフリカ諸国が次々と独立する中で、「植民地主義の象徴である白人政権」「古くからの住民である黒人」そして「宗主国イギリス」いう三つ巴の対立が長らく続き、経済制裁を課されるなど、約半世紀近く前に国際社会の耳目を集めていた国です。

ローデシアは元々、イギリスのアフリカ植民政策の過程で生まれた国家・地域でした。
名称がまったく変わってしまったので、いまや「あの人は今」みたいな存在になってしまった感がありますが、大別すれば現在のザンビアにあたる北ローデシアと、同じくジンバブエにあたる南ローデシアから構成されていました。前者はイギリス保護領、後者は自治政府という位置づけです。
ここに紹介した時刻表は1950(S25)年12月のものですが、南北の政体は異なるものの、鉄道は一括してローデシア鉄道によって運営されていました(実態は1947年に南ローデシア政府によって国有化された国有鉄道)。

のちにローデシアが国際的に注目を集めた一因としては、ちょうど南北の境に世界トップクラスの規模を誇る「ヴィクトリアの滝」があり、そんな一大観光地が問題の舞台となったということとも無縁ではないでしょう。
ローデシア鉄道が発行した絵葉書からも分かるように、滝のすぐ隣には南北ローデシアを結ぶ道路と鉄道の併用橋が架かっており、まだ航空便がなかった頃から比較的訪問しやすい環境が整っていました。

上の時刻表の端に書かれている、ヴィクトリア・フォールズ駅(VICTRIA FALLS)とリヴィングストン駅(LIVINGSTONE)の間が南北の境界で、上述の併用橋が架かっている場所です。

当時の鉄道連絡は南北ローデシア内にとどまらず、なんと南アフリカのケープタウンから南北ローデシアを経由して、ベルギー領コンゴのエリザベートヴィル(Elisabethville-現在のルブンバシ)にまで至っていたようです。
火曜の午後9時にケープタウンを出ると、エリザベートヴィルに着くのは日曜の午前9時。これはまさに、いわゆる「ケープ・カイロルート」の一部にあたります(ローデシアという名称自体、このケープ・カイロルートを推進したセシル・ローズにちなむもの)。
時刻表からは古き良き時代のスケールの大きな旅の夢すら感じ取れるローデシアの鉄道ですが、この頃からこの国は迷走を始めます。以下に要点だけ列挙しましょう。
1953(S28)年 南北ローデシアなどが「ローデシア・ニサヤランド連邦」を結成。
1963(S38)年 アパルトヘイト政策が原因で連邦解消。翌年に北ローデシアがザンビアとして独立。
1965(S40)年 イギリスの意向に沿わず、南ローデシアの白人政権が一方的に独立を宣言。
(以降、白人と黒人の内戦激化。白人政権の強行姿勢に国際的批判が高まる)
1980(S55)年 前年、白人と黒人の間で協定が成立。ジンバブエとして独立。

こうした情勢は、朝鮮半島のように南北の鉄道連絡の断絶を生みました。
上左に掲げた1968(S43)年1月のローデシア鉄道時刻表では、リヴィングストンから北の路線は姿を消しており、かつての南ローデシア域内と、同じく白人優位政策を取っていることから経済制裁中は頼みの綱だった南アフリカとの連絡のみの掲載となっています。
ローデシア経由でのザンビアの銅鉱石の積み出しは不可能となり、ザンビアは中国の支援を得てタンザニア方面への鉄道建設に乗り出します。(「タンザン鉄道」を学校で習いませんでしたか?)
参考までに上右に掲げた、白人スチュワーデスの姿が印象的な1971(S46)年のローデシア航空の時刻表も、当時のこの国の実態を象徴するものと言えるでしょう。
最後に、もう一度1950年の時刻表の表紙に目を移していただきましょう。
変わった形の蒸気機関車が列車を牽引しています。これはガーラット(ガラット)型と呼ばれるタイプのもので、石炭や水の搭載量が多い上に牽引力が大きく、変化に富む辺境の荒野の長距離運行にはもってこいの機種でした。
ローデシアや南アフリカはこのタイプの天国ともいうべき場所で、先に述べた政情不安はあったものの、旧イギリスの植民地ということで訪問への敷居が低かったのか、欧米から熱心な鉄道ファンが多数詰め掛けたこともあったそうです。
ファンの情熱は国際問題をも超えるということでしょうか・・・
(サムネイルをクリックすると拡大します)
今日、紹介する時刻表は、かつてアフリカに存在したそんな国家、ローデシア(Rhodesia)のもの。
アフリカ諸国が次々と独立する中で、「植民地主義の象徴である白人政権」「古くからの住民である黒人」そして「宗主国イギリス」いう三つ巴の対立が長らく続き、経済制裁を課されるなど、約半世紀近く前に国際社会の耳目を集めていた国です。

ローデシアは元々、イギリスのアフリカ植民政策の過程で生まれた国家・地域でした。
名称がまったく変わってしまったので、いまや「あの人は今」みたいな存在になってしまった感がありますが、大別すれば現在のザンビアにあたる北ローデシアと、同じくジンバブエにあたる南ローデシアから構成されていました。前者はイギリス保護領、後者は自治政府という位置づけです。
ここに紹介した時刻表は1950(S25)年12月のものですが、南北の政体は異なるものの、鉄道は一括してローデシア鉄道によって運営されていました(実態は1947年に南ローデシア政府によって国有化された国有鉄道)。

のちにローデシアが国際的に注目を集めた一因としては、ちょうど南北の境に世界トップクラスの規模を誇る「ヴィクトリアの滝」があり、そんな一大観光地が問題の舞台となったということとも無縁ではないでしょう。
ローデシア鉄道が発行した絵葉書からも分かるように、滝のすぐ隣には南北ローデシアを結ぶ道路と鉄道の併用橋が架かっており、まだ航空便がなかった頃から比較的訪問しやすい環境が整っていました。

上の時刻表の端に書かれている、ヴィクトリア・フォールズ駅(VICTRIA FALLS)とリヴィングストン駅(LIVINGSTONE)の間が南北の境界で、上述の併用橋が架かっている場所です。

当時の鉄道連絡は南北ローデシア内にとどまらず、なんと南アフリカのケープタウンから南北ローデシアを経由して、ベルギー領コンゴのエリザベートヴィル(Elisabethville-現在のルブンバシ)にまで至っていたようです。
火曜の午後9時にケープタウンを出ると、エリザベートヴィルに着くのは日曜の午前9時。これはまさに、いわゆる「ケープ・カイロルート」の一部にあたります(ローデシアという名称自体、このケープ・カイロルートを推進したセシル・ローズにちなむもの)。
時刻表からは古き良き時代のスケールの大きな旅の夢すら感じ取れるローデシアの鉄道ですが、この頃からこの国は迷走を始めます。以下に要点だけ列挙しましょう。
1953(S28)年 南北ローデシアなどが「ローデシア・ニサヤランド連邦」を結成。
1963(S38)年 アパルトヘイト政策が原因で連邦解消。翌年に北ローデシアがザンビアとして独立。
1965(S40)年 イギリスの意向に沿わず、南ローデシアの白人政権が一方的に独立を宣言。
(以降、白人と黒人の内戦激化。白人政権の強行姿勢に国際的批判が高まる)
1980(S55)年 前年、白人と黒人の間で協定が成立。ジンバブエとして独立。

こうした情勢は、朝鮮半島のように南北の鉄道連絡の断絶を生みました。
上左に掲げた1968(S43)年1月のローデシア鉄道時刻表では、リヴィングストンから北の路線は姿を消しており、かつての南ローデシア域内と、同じく白人優位政策を取っていることから経済制裁中は頼みの綱だった南アフリカとの連絡のみの掲載となっています。
ローデシア経由でのザンビアの銅鉱石の積み出しは不可能となり、ザンビアは中国の支援を得てタンザニア方面への鉄道建設に乗り出します。(「タンザン鉄道」を学校で習いませんでしたか?)
参考までに上右に掲げた、白人スチュワーデスの姿が印象的な1971(S46)年のローデシア航空の時刻表も、当時のこの国の実態を象徴するものと言えるでしょう。
最後に、もう一度1950年の時刻表の表紙に目を移していただきましょう。
変わった形の蒸気機関車が列車を牽引しています。これはガーラット(ガラット)型と呼ばれるタイプのもので、石炭や水の搭載量が多い上に牽引力が大きく、変化に富む辺境の荒野の長距離運行にはもってこいの機種でした。
ローデシアや南アフリカはこのタイプの天国ともいうべき場所で、先に述べた政情不安はあったものの、旧イギリスの植民地ということで訪問への敷居が低かったのか、欧米から熱心な鉄道ファンが多数詰め掛けたこともあったそうです。
ファンの情熱は国際問題をも超えるということでしょうか・・・
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