還暦を迎えるJAL国内線(1951年)

普段、私たちが当たり前のように利用している国内線。
今年はアニバーサリー・イヤーなのをご存知でしょうか?
敗戦をきっかけに占領軍により、航空に関わる様々な活動が禁止された日本ですが、朝鮮戦争など周辺情勢の変化を契機に再び活動が認められるようになります。
これに伴い、いまからちょうど60年前の1951(S26)年10月25日、東京~大阪~福岡間および東京~札幌間で戦後はじめて国内線の運航が開始されました(※)。これはその時(正確には11月1日からの正規ダイヤでの運航開始時)に日本航空が発行した時刻表です。

当時のJALは日本の民間企業(特殊法人となったのは翌々年のこと)ながら、航空機の調達や運航はアメリカのノースウエスト航空に委託されていました。
時刻表からは「マーチン・スカイライナー」と「ダグラス・スカイマスター」で運航されていたことが分かりますが、前者はマーチン2-0-2(慣例的にマーチン202と表記される場合が多い)、後者はダグラスDC-4のことです。
当時のJAL機には惑星の名前が付けられていました。中でもマーチン2-0-2「もく星」号は、国内線就航一番機という栄誉を担った機体ながら、大島の三原山に墜落するという悲劇的な最期を遂げたことで知られています。
下に掲載したものは、当時ノースウエスト航空(左)とJAL(右)が発行したマーチン2-0-2のポストカードです。ノースウエストのものは、シアトルのレーニア山があたかも羽田空港から富士山を望んでいるようで、来日したマーチン2-0-2の姿が偲ばれる構図です。

ところで、国内線が就航を開始した頃は、地上の施設も今とは比べものにならないくらい貧弱なものでした。
下は、当時JALが搭乗者に配布したB5判のチラシです。中には『飛行場の仮事務所にはトイレがありません』などという記述も。
当時の羽田空港は米軍の管理下にある“基地”でしたが、大規模なターミナルビルはまだ存在せず、現在の整備場地区にあった小さな戦前の建物などを使用して業務が行われていました。
抹線が引かれているところをみると、運航開始から間もなくして事務所が出来、こうした不便は解消したようです。

一方、サービスについては機内食が出されるなど、むしろ現在よりも充実していた面も見受けられます。当時は運賃が非常に高額だったことから、航空機の利用は富裕層のステータスシンボルであり、それに応じて高い水準のサービスを提供する必要性があったのでしょう。
4都市を結んで始まったJALの国内線は、一時、名古屋や三沢、岩国へも寄港するようになりましたが、全日空(当時は前身の「日本ヘリコプター輸送」)との棲み分けから、1954(S29)年には再び当初の姿に戻ります。
そして、日本の経済的成長とともに便数の拡大や最新機材の導入、また、JALの民営化を契機に就航都市の拡大など、量的・質的な進化を遂げながら現在に至っています。
(※)国内線はもちろん、戦前にも存在しました。日本航空輸送株式会社などが、東京・大阪を中心に日本の主要都市に路線を広げていましたが、戦時色の高まりとともに廃止されてしまいました。
【おすすめの一冊】
「羽田空港」日本のエアポート01 (イカロス出版 2010)
館長の拙稿『ターミナルビル変遷史』が掲載されています。
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