東西で本家を争ったルフトハンザ(1956年)

鶴のマークでおなじみのルフトハンザは、航空マニアでなくとも知っている超有名なエアラインでしょう。
これは見てのとおり、ルフトハンザが発行した時刻表です。
ところで、この時刻表が発行された1956(S31)年当時、ドイツは東西に分裂していて、自由主義陣営と共産主義陣営の対立の最前線でした。
では東西の航空会社がどうなっていたのかというと、これまた東西それぞれ別々の航空会社が存在していたのです。
その名前は東西どちらも「ルフトハンザ」。
ここに紹介した時刻表は、「東ドイツの」ルフトハンザのもの。
東ドイツというと、日本では秘密警察やベルリンの壁といった重くて暗い印象ばかりがつきまといますが、そんなイメージとはまったく正反対の表紙はどのように解釈すれば良いのでしょうか?

前年に設立されたばかりということで路線網はまだ限られていますが、共産圏の航空会社だけに、そのすべてがベルリンからワルシャワ・プラハ・ブダペスト・ソフィア・ブカレストといった東欧への路線だったことが分かります。
(ウィーンやチューリヒといった都市名も見えますが、乗り継ぎ便による目的地です)
ただ、共産圏である東欧は必ずしも西側諸国と接触が無かったという訳ではありません。
東欧の航空会社はパリやロンドンに乗り入れていましたし、逆に西側諸国のエアラインも東欧諸都市に乗り入れていました。
そこで困った問題が起きます。“ルフトハンザが東西二つ存在するのは紛らわしい”という指摘です。
東よりもわずかに先に設立された西ドイツのルフトハンザは、『我こそが戦前のルフトハンザを引き継ぐ元祖・ルフトハンザである』と主張。結局、この対立は裁定に持ち込まれ、東のルフトハンザには制裁金が科されることに。
こうなると、東もさすがにルフトハンザという商標を引っ込めざるを得なくなってしまい、このために取られた苦肉の策が、1958(S33)年に設立された別のエアラインであるインターフルーク(INTERFLUG)への統合でした。
こうして1963(S38)年9月、東ドイツのルフトハンザはインターフルークにとって代わられる形で消滅し、数年に渡るすったもんだにようやく決着が付いたのでした。
もっとも、1960年頃の東のルフトハンザの時刻表ではルフトハンザ便(DH)とインターフルーク便(IF)が一緒に載っていたことからも分かるように、実態としては両社は競合関係というよりも渾然一体となった運営がすでに行われていたようです。

最後に掲げたのは、ベルリン・シェーネフェルト空港に佇むありし日のルフトハンザ機の絵葉書(ソ連製のイリューシンIl-14型機)。
東西ドイツを取り巻く航空事情は上記の逸話に限らずいろいろネタが尽きないので、またいつか触れてみたいと思います。
【おすすめの一冊】
「ニセドイツ ≒東ドイツ製工業品」伸井太一著(社会評論社 2009)
モノやサービスから東ドイツの社会・文化を回顧する好著。館長もインターフルーク関連の資料を提供。
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