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サスペンスの舞台となったインペリアル航空(1935年)

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イギリスのミステリー作家であるアガサ・クリスティーは、『オリエント急行の殺人』など旅を背景とした作品で知られていますが、その中に飛行機が舞台の作品があることをご存じの方も多いでしょう。

『雲をつかむ死』(原題"Death in the Clouds")。1935(S10)年に発表されたこの作品は、パリからロンドンに向かう“ユニヴァーサル航空”の“プロメテウス号”という飛行機の中で起きた変死事件で幕を開けます。

今日紹介するのは、おそらく作者が下敷きにしたであろう、まさにその当時のヨーロッパ空路を翔んでいた航空会社の時刻表です。

そのエアラインの名はインペリアル航空。

同社は大英帝国のフラッグ・キャリアとして、イギリス本国から南アフリカやオーストラリアといった英連邦諸国への長距離国際線の運航で知られていましたが、この冊子には欧州内路線のみが掲載されています。

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『雲をつかむ死』では、昼にパリのル・ブルージェ飛行場を離陸して、ロンドンのクロイドン飛行場へ向かう便の機内で事件が起きるのですが、時刻表を開くとありました!

12時30分パリ発ロンドン行き-"Silver Wing Service"という特別な名前が付けられたこのフライトこそが、オリエント急行と同様に、惨劇の不可解さを際立てるにふさわしい場というインスピレーションをアガサが感じた、当時の紳士淑女の優雅な旅のスタイルを象徴する航空便だったに違いありません。
(本文中では、『クロイドンへの昼間便』 『12時の便』と表現されています。)

でも、同じ位の時間に発着する他の会社の便は無かったのか? なぜ、インペリアル航空のその便だと分かるのか? と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。たしかに、同じ路線をエールフランスの便も飛んでいました。しかし、もうひとつ、「機種」という手がかりがあるのです。

小説では“プロメテウス号”となっていますが、じつはそんな名前の機種・機体は存在しません。
それでも、時刻表には "Heracles or Scylla class of air liner" での運航と記載されているのがお分かりかと思います。
“ヘラクレス” - プロメテウスと同じくギリシャ神話に由来する名前です。そんなところにも、小説の下敷きとなった機種の姿が見え隠れします。

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では“ヘラクレス”タイプがどんな機体だったのでしょうか? インペリアル航空が当時発行した、機種別の透視図が掲載されたパンフレットをひもといてみましょう。

上はそのパンフレットの表紙で、下が“ヘラクレス”タイプの図。
1931(S6)年に登場した同機は、正式には「ハンドレページ H.P.42」といいます。これには2種類あり、38人乗りのヨーロッパ路線むけが“ヘラクレス”で、機内の一部が異なる24人乗りが“ハンニバル”タイプという、長距離国際線用でした。

『雲をつかむ死』には、プロメテウス号の機内図(但し、事件が起きる機内後半部分のみ)が巻頭に載っています。後方から、荷物室・乗降口・座席4列・ギャレー(配膳室)・洗面所という配置は、まさに“ヘラクレス”の機内図と一致するのです。
なお、このパンフレットには"Scylla"タイプの図も掲載されているのですが、プロメテウス号の図とは一致しません。

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ところで、ハヤカワ文庫『雲をつかむ死』の巻末には、作家の紀田順一郎氏による解説が付いているのですが、そこで氏は機種の推定について以下のように書いています。

『私は航空史の専門家ではないが、諸資料に照らしてみると、1935年時点では21人乗りの“超大型”旅客機は非常にめずらしいものだったといえそうだ。(中略) さいわいこの作品は緻密な時代考証で人気のあるTVドラマにより映像化されているが、そこに登場するのは米ダグラス社のDC-3機と同じ系統に属するもので、じつはこれ、クリスティーが本書を刊行した年にアメリカン航空が大陸間に就航させた機種にほかならない。この飛行機から、はじめて21人乗りが実現したのであった。 (中略) そのようなわけで一応DC-3にきまりということになるが、困ったことにこの機種は本書刊行の年の暮、1935年の12月17日になってから米英大陸間に就航したものである(後略)』

乗客数が当時としては極めて多いことに注目し、また一方で、時期的にみてDC-3という推定に引っかかるものを感じているのにも関わらず、当時のイギリス航空事情を掘り下げるに至らなかった点は惜しいところです。

ハンドレページ H.P.42はインペリアル航空でのみ使われた後、第二次大戦前後にすべてが失われ、現存する機体はありません。どんなに考証がしっかりしたTVドラマでも、そこまでの再現は難しかったでしょう。


【おすすめの一冊】
"BRITISH AIRWAYS AN AIRLINE AND ITS AIRCRAFT VOLUME 1:1919-1939 THE IMPERIAL YEARS"
(R.E.G. Davies, Paladwr Press 2005)
 民間航空史の大家による、使用機を軸にしてインペリアル航空の歴史を解説した図説。

(画像をクリックすると拡大します)
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プロフィール

ttmuseum

Author:ttmuseum
「20世紀時刻表歴史館」館長。
サラリーマン稼業のかたわら、時刻表を中心とした交通・旅行史関連資料の収集・研究・執筆活動を行う。

<著作>
「集める! 私のコレクション自慢」(岩波アクティブ新書・共著)

「伝説のエアライン・ポスター・アート」(イカロス出版・共著)

「時刻表世界史」(社会評論社)

「時空旅行 外国エアラインのヴィンテージ時刻表で甦るジャンボ以前の国際線」(イカロス出版)

その他、「月刊エアライン」「日本のエアポート」「航空旅行」(いずれもイカロス出版)、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)などに航空史関係記事を執筆。

<資料提供>
・航空から見た戦後昭和史(原書房)
・昭和の鉄道と旅(AERAムック)
・日本鉄道旅行地図帳(新潮社)
・ヴィンテージ飛行機の世界(PHP)
の他、博物館の企画展や書籍・TVなど多数。

「時刻表世界史」で平成20年度・第34回交通図書賞「特別賞」を受賞。

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