ベルリンと西ドイツを結んだ長距離バス(1949年)

第二次大戦の結果、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4ヵ国に分割占領されたドイツですが、首都・ベルリンはソ連占領地域の中に浮島のように存在する形になってしまいました。
時あたかも冷戦が始まろうかという時代。アメリカ・イギリス・フランスによる占領地域、いわゆる西ドイツに相当する地域とベルリンとの往来にはいろいろと不自由が生じることとなります。
米英仏の航空会社がベルリンに乗り入れ、西ドイツ地域との連絡にあたったことはよく知られています。また、鉄道でもベルリンと西ドイツ各都市を結ぶ連絡列車が運行されていました(一般向けの列車のほか、軍専用の列車ももありました)。
いずれも経由するルートは厳格に定められ、どこでも通れるという訳ではありませんでしたが。
もうひとつ、西ドイツとベルリンの連絡という役割を担ったのが道路交通、すなわち都市間バスでした。
ここに紹介するのは、1949(S24)年9月から10月にかけて西ドイツと東ドイツがそれぞれ成立する直前の、ベルリンとドイツ西部地域各都市を結ぶ都市間連絡バスの時刻表。
東西“地域”間を結ぶということで、"Interzonen - Autobusverkehrs"と記載されています。

中を開くと、フランクフルト・ハンブルク・ミュンヘンなど、ドイツ西部地域の主要都市が漏れなくバスで連絡されていたことが分かります。
たとえば、ハンブルクへはベルリンの目抜き通りであるウンター・デン・リンデンを7時30分に出発し、リューベックを経由して16時30分頃到着するスケジュールなどがありました。
ところで1949年当時、日本では数時間かけて都市間を結ぶような長距離バスはまだ存在しませんでした。
それもそのはず、初の高速道路として名神高速道路が部分開通するのは1963(S38)年。有料道路すら存在していなかった時代です。
それとは対照的に、戦後まもないドイツでのこうした長距離バスの登場は、1930年代にヒトラーの肝煎りで進められたアウトバーンの建設というプロジェクトとは無縁ではないでしょう。
本格的に整備が再開されたのは1950年代以降のことですが、それでも大戦までに3800キロあまりが完成しています。
なお、運賃にDMWとDMOという二種類がありますが、これはドイツマルクの「WEST」と「OST」の区別を表しています。つまり、東ベルリン発の路線については東のドイツマルク(DMO)が適用されたという訳です。
ドイツの通貨については、この時刻表の前年、1948(S23)年に東西間で一悶着があり、ベルリン封鎖という事態の背景ともなっています。
なお、この時刻表は6月15日から有効ですが、ベルリン封鎖はまさにその前月まで継続していました。そういう点からも、この時刻表は東西の交通が再開された直後の貴重な記録といえます。
ちなみに、下記「おすすめの一冊」にも、封鎖解除直後の1949年5月12日に、シュトゥットガルター・プラッツ(ベルリン=シャルロッテンブルク駅前の通り)を歓喜に沸く大群衆に囲まれて出発する、ハノーバー行きバスの写真が掲載されています。
当時のバスは、連合軍のトラックなどを改造してお客さんの乗る箱を牽引させた「トレーラー・バス」といわれるタイプのもの。
このタイプは、乗客の急増と車両不足という事情を抱えていた戦後間もない東京などでも走っており、その辺については日本もドイツも変わらなかったようです。
【おすすめの一冊】
"VERKEHR IN BERLIN" (Haude&Spener 1988)
19世紀から20世紀後半にかけてのベルリンに関する交通の写真集。市内交通編と遠距離交通編の2冊がある。
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