「ニセドイツ3」補遺
資本主義諸国とは対極に位置した東ドイツに郷愁をおぼえる「オスタルギー」の視点も織り交ぜながら、東ドイツの工業製品や社会を読み解く「ニセドイツ1」「ニセドイツ2」の続編として、今度は西ドイツそのものを取り上げた「ニセドイツ3」(伸井太一さん著・社会評論社刊)が登場!
詳しくはコチラ
実はこのシリーズを手がけているのが「時刻表世界史」の編集者・ハマザキカクこと濱崎誉史朗氏ということで、私は前作に東ドイツ国営航空・インターフルークや東ドイツの鉄道に関する資料を提供したのですが、今度は寄稿のリクエストがあり、資料と拙文が数ページ掲載されております。題して、
『時刻表ドイツ史:自国以外との意外なエピソード』
内容は是非お買い求めのうえご覧下さい! といういうことで詳述は避けますが、今回、紙幅の都合で大幅に割愛せざるを得なかった図版を、本エントリで紹介したいと思います。
本文と併せてご覧になると、より理解が進むでしょう。
<1962(S37)年のパンナム西ドイツ国内線時刻表>
これは西ドイツ各都市と西ベルリンを結ぶ路線だけが掲載されたパンアメリカン航空の時刻表です。
本文でも触れていますが、東西ドイツ統一までは西ベルリンという都市の特殊性から、米英仏の航空会社だけがこの区間を運航していました。パンナムだけでもなんと一日に50便程度が往来していたことが見てとれます。
当時はベルリン中心部のテンペルホーフ空港にプロペラ機・DC-6Bで発着していました。
"NUR FRACHTFLUG"と記載された貨物専用便も運航されていたことがわかります。

<東ドイツ国内線のルート>
西ドイツと西ベルリン間を結ぶ空路は東ドイツ上空を飛ぶため、厳格に決められていました。
この空中回廊は東ドイツの西半分に3本設けられていましたが(本書P.50参照)、一方の東ドイツ国内線は見事にバッティングしないような位置を飛んでいたということが分かる資料が下の地図。
東ドイツ国営航空・インターフルークが1960年代に発行した国内線ルートマップですが、東ドイツ国内線の航空路はベルリンよりも東側に集中していたことが一目瞭然です。

<西ベルリン~シェーネフェルト空港間のトランジットバス>
さて、本文では東ベルリンのシェーネフェルト空港にまつわるエピソードに触れていますが、西ベルリンとの間に走っていた連絡バスの時刻表というのがコレ。
シェーネフェルトからの航空便の時刻が掲載されていますが、東欧だけではなく意外にもパリやロンドンといった西側都市にも飛んでいました(もちろん、航空会社はポーランド航空など東側の会社です)。

発行は1963(S38)年ですが、このトランジットバスを利用する場合の注意点が裏に記載されています。

<パンナムの軍人向け時刻表>
そして最後にもう一つ、西ドイツに関わるパンナムの資料を。
上述したように、かつてパンナムは西ドイツで大きな存在感を放っていましたが、それは冷戦という背景があったからに他なりません。現在もフランクフルト空港に隣接してライン・マイン基地がありますが、戦後西ドイツには数多くの米兵が駐留していました。
そうした米兵や家族など関係者の本国との往来のために、パンナムが軍人むけ割引を用意していたということが分かる資料が、1975(S50)年に発行された"Military Timetable Germany - USA"です。

是非お買い求め下さい!!!
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実はこのシリーズを手がけているのが「時刻表世界史」の編集者・ハマザキカクこと濱崎誉史朗氏ということで、私は前作に東ドイツ国営航空・インターフルークや東ドイツの鉄道に関する資料を提供したのですが、今度は寄稿のリクエストがあり、資料と拙文が数ページ掲載されております。題して、
『時刻表ドイツ史:自国以外との意外なエピソード』
内容は是非お買い求めのうえご覧下さい! といういうことで詳述は避けますが、今回、紙幅の都合で大幅に割愛せざるを得なかった図版を、本エントリで紹介したいと思います。
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<1962(S37)年のパンナム西ドイツ国内線時刻表>
これは西ドイツ各都市と西ベルリンを結ぶ路線だけが掲載されたパンアメリカン航空の時刻表です。
本文でも触れていますが、東西ドイツ統一までは西ベルリンという都市の特殊性から、米英仏の航空会社だけがこの区間を運航していました。パンナムだけでもなんと一日に50便程度が往来していたことが見てとれます。
当時はベルリン中心部のテンペルホーフ空港にプロペラ機・DC-6Bで発着していました。
"NUR FRACHTFLUG"と記載された貨物専用便も運航されていたことがわかります。

<東ドイツ国内線のルート>
西ドイツと西ベルリン間を結ぶ空路は東ドイツ上空を飛ぶため、厳格に決められていました。
この空中回廊は東ドイツの西半分に3本設けられていましたが(本書P.50参照)、一方の東ドイツ国内線は見事にバッティングしないような位置を飛んでいたということが分かる資料が下の地図。
東ドイツ国営航空・インターフルークが1960年代に発行した国内線ルートマップですが、東ドイツ国内線の航空路はベルリンよりも東側に集中していたことが一目瞭然です。

<西ベルリン~シェーネフェルト空港間のトランジットバス>
さて、本文では東ベルリンのシェーネフェルト空港にまつわるエピソードに触れていますが、西ベルリンとの間に走っていた連絡バスの時刻表というのがコレ。
シェーネフェルトからの航空便の時刻が掲載されていますが、東欧だけではなく意外にもパリやロンドンといった西側都市にも飛んでいました(もちろん、航空会社はポーランド航空など東側の会社です)。

発行は1963(S38)年ですが、このトランジットバスを利用する場合の注意点が裏に記載されています。

<パンナムの軍人向け時刻表>
そして最後にもう一つ、西ドイツに関わるパンナムの資料を。
上述したように、かつてパンナムは西ドイツで大きな存在感を放っていましたが、それは冷戦という背景があったからに他なりません。現在もフランクフルト空港に隣接してライン・マイン基地がありますが、戦後西ドイツには数多くの米兵が駐留していました。
そうした米兵や家族など関係者の本国との往来のために、パンナムが軍人むけ割引を用意していたということが分かる資料が、1975(S50)年に発行された"Military Timetable Germany - USA"です。

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