近海郵船小笠原航路(1935年)

世界自然遺産に登録が決まった小笠原諸島。本土とはまったく異なった自然の姿を見ることができるのがその大きな魅力でしょう。しかしそれだけではなく、一昼夜かかる船旅しかそこに到る足がなく、一度渡るとほぼ一週間近くの旅になるという浮世離れした立地もその魅力を後押ししていると私は思います。
しかし、小笠原諸島は同時に悲しい歴史も背負っています。第二次大戦中は日米の激戦の舞台となり、戦後はアメリカによる統治時代を経て未だに自由な往来が出来ない硫黄島。
ここに紹介するのは、そんな硫黄島にもまだ一般住民の暮らしがあった時代の小笠原航路の運航予定表です。

予定表をご覧いただくとわかるように、当時の小笠原航路は八丈島経由で東京と父島・母島を往復しており、その中の一部が二ヶ月に一度延航する形で硫黄島行き定期便が運航されていました(なお、これ以外にも母島~硫黄島間だけの船便があった模様)。
硫黄島は3つの島から成り立っています。予定表で「中硫黄島」と書かれているのがいわゆる硫黄島。この他に北硫黄島と南硫黄島があります。
ところで、よく見ると南硫黄島へ寄港する便は一年にたった一便、しかも東京に戻る片道しかありません。これは一体どういうことなのでしょうか? この解答は小笠原村のHPに以下のように記載されています。
『1889年(明治22年)、南硫黄島の海岸において漂着者3名が発見されて生還したため、1895年(明治28年)より硫黄島へ来航する定期船は、年に一航海だけ南硫黄島まで延航し、島の周囲を回って漂着者の在島の有無を確認するようになった。』
南硫黄島は当時から現在に至るまで無人島です。そこに往来する足としてではなく、図らずも流れ着いてしまった人を収容するための寄港だったのですね。

無人島というと、本航路が寄港する「鳥島」も今は無人ですが、戦前には人が住んでいました。1933(S8)年まではアホウドリ(上に掲載した戦前のリーフレットでは「アホー鳥」と記載)の捕獲が禁じられていなかったので、食肉や羽毛目当ての業者が鳥島に居たからです。ちなみに、パンフレットで「正覚坊」と書かれているのは「アオウミガメ」のこと。
『未知の世界の絵巻物』という表現、なかなか秀逸です。
【おすすめのリンク】
「小笠原海運」公式サイト
沿革のページに過去の使用船舶の写真も掲載されています。
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