昔の空の旅-JALのDC-7C
第二次大戦後、航空旅行は大きな進化を遂げました。当館では随時「昔の空の旅」と題して、今から半世紀以上前、ちょうどプロペラ機からジェット機への転換という大きな変化があった時代を各種資料から回顧してみたいと思います。
まず第一弾は、JALにとって最後の国際線むけレシプロ四発機となったDC-7Cについてです。

1954(S29)年にJALの太平洋線を拓いたDC-6Bと、ジェット時代の最初の主力機・DC-8との間の「つなぎ」として投入されたDC-7Cは、1958(S33)年の東京~サンフランシスコ線を皮切りに、ロサンゼルス線・シアトル線に就航しました。これはその頃に発行された案内パンフレット。
この時代にこれだけカラー写真がふんだんに使われているのは、日本で発行された航空会社のパンフレットとしては珍しいものです。

座席配置図(コンフィギュレーション)によると、前方がツーリストクラス・後方がファーストクラス(図中ではデラックス・セクションと表記)という、当時のスタンダードに則った配置だったことがわかります。こうしたクラス配置には、ファーストクラスがプロペラから離れた位置にあることでより静粛性が保てるというメリットがありました。
座席は2列+3列または2列+2列で、それこそ今日の小型機と同じですが、国際線というものが“セレブな”乗り物だった時代だけに、ファーストクラスに寝台(図の番号7)とラウンジ(図の番号9)を備えているのはさすがです。

当時のJALはファーストクラスを「きく」、ツーリストクラスを「さくら」と称していましたが、こちらは「きく」の様子。窓に障子が嵌まった準和風デザインのラウンジの様子がわかります。
JAL名物の「ハッピ」はこの時代からあったのですね。
DC-7Cは就航からわずか2年あまりで国際線から退いて国内線に転用されてしまいましたが、航空旅行がジェット機による大量輸送時代に突入する前、プロペラ機が太平洋線に就航していた古きよき時代の最後を飾るにふさわしい内容を備えた名機だったといえるでしょう。
(サムネイルをクリックすると拡大します)
まず第一弾は、JALにとって最後の国際線むけレシプロ四発機となったDC-7Cについてです。

1954(S29)年にJALの太平洋線を拓いたDC-6Bと、ジェット時代の最初の主力機・DC-8との間の「つなぎ」として投入されたDC-7Cは、1958(S33)年の東京~サンフランシスコ線を皮切りに、ロサンゼルス線・シアトル線に就航しました。これはその頃に発行された案内パンフレット。
この時代にこれだけカラー写真がふんだんに使われているのは、日本で発行された航空会社のパンフレットとしては珍しいものです。

座席配置図(コンフィギュレーション)によると、前方がツーリストクラス・後方がファーストクラス(図中ではデラックス・セクションと表記)という、当時のスタンダードに則った配置だったことがわかります。こうしたクラス配置には、ファーストクラスがプロペラから離れた位置にあることでより静粛性が保てるというメリットがありました。
座席は2列+3列または2列+2列で、それこそ今日の小型機と同じですが、国際線というものが“セレブな”乗り物だった時代だけに、ファーストクラスに寝台(図の番号7)とラウンジ(図の番号9)を備えているのはさすがです。

当時のJALはファーストクラスを「きく」、ツーリストクラスを「さくら」と称していましたが、こちらは「きく」の様子。窓に障子が嵌まった準和風デザインのラウンジの様子がわかります。
JAL名物の「ハッピ」はこの時代からあったのですね。
DC-7Cは就航からわずか2年あまりで国際線から退いて国内線に転用されてしまいましたが、航空旅行がジェット機による大量輸送時代に突入する前、プロペラ機が太平洋線に就航していた古きよき時代の最後を飾るにふさわしい内容を備えた名機だったといえるでしょう。
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