なぜか西ドイツ国内線に飛んでいたソ連旅客機(1973年)

すでにこの世には存在しないので、おそらく日本ではまったく知られていない、ある航空会社の時刻表を取り上げてみたいと思います。
その名はGENERAL AIR-西ドイツの会社なので、ゲネラルエアと呼ぶのが適当でしょう。
これは同社の1973年(S48)の時刻表。路線図を見ると、西ドイツの主要都市間を結ぶ国内線の会社だったことが分かります。
路線図にLHという記号が見えますが、同社の一部の便は西ドイツのフラッグキャリアであるルフトハンザの便として運航されていました。

そんなマイナーな航空会社を紹介したのには理由があります。
ちょっと航空に詳しい人であれば、時刻表に掲載されている使用機種の紹介を見てホホゥと思うでしょう。
左側はデ・ハビランド・カナダDHC-6ツインオター、そして右側は・・・「ソ連製の」Yak-40。
ちょっと考えてみてください。
1970年代といえば冷戦の時代。西側にはボーイングやらダグラスやら(エアバスは開発中でまだ現在のように世界的な企業ではありませんでした)資本主義の象徴ともいえる航空機が多数あったはずなのに、「西ドイツ」で「ソ連製」の機体が使われていたとは!

これが時刻表の中身。
便名のGQというのが同社のコードで、LHはルフトハンザのコードですが、LHがついている便でもYak-40が使われるれるものは実際にはゲネラルエアによる運航でした。
しかしなぜこんなことが起きたのでしょうか?
1976(S51)年に倒産してしまった会社で資料が少なく、その真相は定かではありませんが、当時は乗客30人クラスの小型ジェット機がほとんど存在しなかったこと、また、ソ連辺境のあまり整備されていない飛行場でも使用できる、丈夫で離着陸性能に優れた機体がローカル線の運航にマッチしていたということかもしれません。
ソ連も自国の航空技術を世界に発信し、陣営の東西問わず輸出しようとしていました。1973年のパリ航空ショーで墜落したツポレフTu-144などはその象徴でしょう。
実際、1970年代に日本で開催された航空宇宙ショーにも、ソ連の機体は毎回のように訪れています。
(しかも、当時の航空宇宙ショーは入間や小牧など自衛隊基地で開催されていたので、自衛隊基地にソ連機が発着するという、これまた奇妙な光景が繰り広げられた)
西ドイツに関しては、1970年代初頭に東方外交によって東西関係が融和に向かい、共産圏に対する拒絶反応がいくらか薄らいだという背景もあったのではないかと思われます。
ただ、いずれにしても、西側諸国にとってソ連機は使いやすいものではなく、同社の例が知られる限りほぼ唯一の例でした。
同じ歴史と文化を有する民族がイデオロギー対立で東西に分かれ、それぞれが相手を意識しながら自分の陣営の繁栄を模索することで強烈な個性が生まれたのが東西ドイツという国であり時代でした。それ故に、こんな「矛盾」があちこちに見え隠れするところに、戦後ドイツ史の面白さがあるのです。
激しく同意!という方には「ニセドイツ」1~3(伸井太一さん著・社会評論社刊)をおすすめします。
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懐かしの水上バス(1960年)

「東京スカイツリー」の開業で注目を集める隅田川・浅草地域。
ここに欠かせない観光名所といえば、浅草の吾妻橋を起点に隅田川を上下する「水上バス」でしょう。ガラス張りのモダンな2階建て観光船から川風に吹かれながら堪能する眺望は格別です。
ところでこの「水上バス」、昔から現在のような形態だったのかといえば、そうではありません。
ここに紹介するリーフレットは、1960(S35)年に発行されたと思われる「水上バス」の案内。現在は吾妻橋と日の出桟橋(浜松町)をダイレクトに結んでいますが、当時は途中で蔵前橋や両国橋、永代橋に寄りながら、東銀座に発着していたことがわかります。
どうしてこんな各駅停車の路線だったのかといえば、それは現代のように観光に特化した存在ではなく、かつてはまさに水上「バス」という実用性もあったからでしょう。

内部の解説によると、水上バスのルーツは明治18年(1885)年にまで遡ります。当初は一銭蒸気とよばれていました(表紙に『75年間完全無事故』と書かれていますので、このリーフレットの発行は1960年から61年と推察されます)。
現在では100屯クラスの観光船が走るこの路線ですが、1960年代は「10屯以上」と書かれているとおり、船の大きさは今とは比べものにならない位、小さいものでした(そこに450名収容というのはムリがなかったのでしょうか?)。
運航は夏以外のシーズンは日没頃までとなっていますが、別の資料によると、もっとも日が短い時期で夕方の16時まで。そして日の長さとともに運航時間も長くなるダイヤだったようです。ただ、この当時でも真冬は土日だけの運航となっており、さすがに実用交通機関としての役割は薄れていたのでしょう。
そして、この資料には当時の隅田川に欠かせない風物詩が他にも二つみられます。
一つ目は「勝鬨橋」。解説に書かれているとおり、この頃はまだ一日に3回、開橋していたことがわかります。やがてこの頻度は1961(S36)年に一日1回に減り、1970(S45)には“開かずの橋”となって今に至ります。
もうひとつは「佃の渡し」。路線図の勝鬨橋のすぐ上に描かれているのがお分かりになるかと思います。
隅田川には多くの橋が架けられていますが、かつてはそれぞれが渡し船だったと言っても過言ではないくらい、隅田川の渡しは隆盛を誇りました。しかし、隅田川下流で最後まで残っていた「佃の渡し」も他の例に漏れず、オリンピックで東京が大改造を遂げた1964(S39)年、佃大橋の開通により廃止となっています。
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